まちの文化財(206)建屋小学校と北垣国道

更新日:2022年01月14日

建屋小学校からみた能座

建屋小学校からみた能座

建屋小学校にある北垣男爵の写真像

北垣たちが集まった中尾神社

小樽公園にあった北垣男爵の銅像

建屋小学校にある北垣男爵の写真

北垣たちが集まった中尾神社

小樽公園にあった北垣男爵の銅像

北垣国道は天保7年(1836)8月、能座村で生まれ、池田草庵の立誠舎に7歳で入門しました。続いて青谿書院で学び、20年間も教えを受けました。当時は、北垣晋太郎という名前でした。明治2年、鳥取藩の武士に任官して北垣国道を名乗りました。

安政6年(1859)、能座村の中尾神社に晋太郎たち18人の若者が集まって誓約書を作っています。その内容は「博打をかたく慎む。お寺や神社の仕事には進んで協力する。口論をせず親や兄弟に心配をかけない。道具は大切にする」など6項目です。

能座に晋太郎が積んだという畑の石垣が残っており、地元では男爵石垣と呼ばれています。晋太郎は村の若い指導者として活躍しました。

明治25年(1892)、北垣国道は4代北海道庁長官に就任しました。函館港や小樽港を整備し、全長1652キロメートルにも及ぶ北海道鉄道の建設を推進しました。そして明治29年には男爵に任命されました。

建屋小学校は明治6年(1873)、建興寺を仮校舎として開校したといいます。明治40年、北垣男爵は、ふるさとに帰省して建屋小学校を参観し、金100円と肖像写真を寄付しました。

大正5年(1916)1月、北垣男爵は京都市の自宅において満79歳で亡くなりました。この時、8反2畝(約82アール)の水田を建屋小学校に寄付しました。水田は農家に貸し出され、その使用料(年貢)が、毎年、学校運営の資金となりました。

北垣男爵は、ふるさとの子どもたちが建屋小学校で元気に勉強できることを願って水田を寄付しました。明治維新の時、長岡藩がおこなった「米100俵の精神」が有名です。北垣男爵からの贈り物は、建屋小学校の「米8反の精神」と呼びたいと思います。

(註)現在は8反の水田から約64俵、384キログラムの米が収穫できると言われています。

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