まちの文化財(196)三方城と三方正秀

更新日:2021年03月29日

大屋川に臨む三方城

大屋川に臨む三方城

三方正秀の供養塔

三方正秀の供養塔

宮垣にある三方城と天満山城

宮垣にある三方城と天満山城

宮垣集落には、大屋川をはさんで三方城(別名・宮垣城)と天満山城(別名・男坂城)という二つの山城があります。城主はいずれも三方正秀と考えられています。大屋川の両岸に城郭を築いて、下流から大屋に攻めてきた敵を防ぐ戦法です。

三方城は大屋川右岸、宮垣集落の南側に迫り出した尾根の山頂部にあります。集落からの比高差は約140メートルあり、山城には8段の曲輪を構築しています。

天満山城は大屋川左岸の男坂神社の境内地にあり、比高差は約30メートルです。本殿がある場所が城の中心にあたる主郭であり、5段の曲輪を造っています。

宮垣橋本には道路に面して「三方大蔵蒸(おおくらのじょう)正秀塔」の文字を刻んだ石碑があります。三方正秀は大蔵丞という官職を名乗る武士で、永禄3年(1560)には宮垣村から夏梅村までの三方郷を治めています。しかし天正5年(1577)11月、羽柴秀長の但馬攻めによって降参します。大屋の加保には、秀長に命じられた藤堂高虎が入ってきます。栃尾祐善という加保の地侍は高虎を支援しました。その一方、三方正秀は羽柴秀長に仕えたようです。

天正9年三方正秀は、羽柴秀長のもとで宮部継潤に属して鳥取城攻めに従軍しました。鳥取城は落城しましたが、同僚の遺恨によって岩井温泉で殺されたといいます。子の三方正澄は父の首を持ち帰り、宮垣村大門の傍らに埋めました。宝暦10年(1760)に村人たちが供養塔を建立したと伝わっています。現在の石碑は、一族の人がその後に再建したものです。

市内各地には伝説の武将がいます。三方正秀は大屋を代表する武将です。三方城のふもとにあるこの供養塔は、戦乱の時代に生きた三方城主を偲んでいます。

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