まちの文化財(84) 太田垣猶川の敬忠舎

更新日:2019年11月18日

お大師堂の境内にある顕彰碑

                お大師堂の境内にある顕彰碑

                     太田垣先生の顕彰碑

 

江戸時代に活躍した養父市の教育者に太田垣猶川(ゆうせん)という人物がいます。吉井村で医者として人を助け、関宮村に敬忠舎という私塾を開いて学問を教えました。

関宮区の栄町にあるお大師堂の敷地に、「羽山(うざん)太田垣先生之墓」という高さ134センチメートルの石碑があります。この付近に敬忠舎がありました。これは墓という文字がありますが、門人が建てた顕彰碑です。石碑の側面には、村岡藩校教授の池田益氏が太田垣先生の事跡を解説しています。

「実名は惟中(いちゅう)、通称名は猶川、羽山は号である。京都で時彦に医術を学び、手島堵庵に道学を学ぶ。吉井村に帰って医術で人を助けた。その後、心学を広めた。豊岡藩主京極高行侯は招いて進講を三度も受けた。文政2年(1819)に71歳で亡くなった。門人が追慕して碑を建て、徳を讃える。」というものです。

手島堵庵は、石田梅岩の高弟であり、石門心学(せきもんしんがく)の指導者です。手塚一門は全国に約60人の教授がいましたが、但馬国の教授は太田垣猶川の一人だけです。

太田垣猶川は、寛政9年(1797)、著書「御代の腹鼓」を出版しました。その一節には「夏は暑いが夏の道、冬は寒いが冬の道、人には人のまことのみち、この誠にさへたがわねば、家もととのい、国治まる」と記しています。

太田垣猶川の弟子の一人に、八鹿村の西村潜堂がいました。西村潜堂は八鹿諏訪町に心学講舎として立誠舎を開きました。その後、但馬に帰郷した池田草庵も、ここで最初に漢学塾の立誠舎を開きました。

江戸時代の養父市には、関宮村に太田垣猶川の敬忠舎、八鹿村に西村潜堂の立誠舎、宿南村に池田草庵の青谿書院がありました。こうした私塾は、養父市の教育の源流となった先人の足跡です。養父市には200年も前から教育を大切にする伝統があります。

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