お大師堂の境内にある顕彰碑
太田垣先生の顕彰碑
江戸時代に活躍した養父市の教育者に太田垣羽山(うざん)先生がいます。関宮村に敬忠舎という私塾を開いて学問を教えました。そして太田垣猶川(ゆうせん)という通称名で、吉井村で医者として人を助けました。
関宮区の栄町にあるお大師堂の敷地に、「羽山大田垣先生之墓」という高さ134センチメートルの石碑があります。これは門人たちが儒学者の様式で建てた墓所です。右に地蔵菩薩と南無阿弥陀仏の石碑、左には法華経の石碑があり、関宮町の能見氏が墓を守ったと記録にあります。これとは別に自然石に「廣度院済誉猶川居士」と刻んだ仏教の様式の墓が吉井村にあります。(太田垣俊郎「郷土の心学者太田垣猶川」『関宮町史資料集第1巻、昭和53年発行』)。
石碑の側面には、村岡藩校教授の池田益氏が太田垣先生の事跡を解説しています。「実名は惟中(いちゅう)、通称名は猶川、羽山は号である。京都で時彦に医術を学び、手島堵庵(てしまとあん)に道学を学ぶ。吉井村に帰って医術で人を助けた。その後、心学を広めた。豊岡藩主京極高行侯は招いて進講を三度も受けた。文政2年(1819)に71歳で亡くなった。門人が追慕して碑を建て、徳を讃える。」というものです。
手島堵庵は、石田梅岩の高弟であり、石門心学(せきもんしんがく)の指導者です。手島一門は全国に約60人の教授がいましたが、但馬国の教授は太田垣猶川の一人だけです。
太田垣猶川は、寛政9年(1797)、著書「御代の腹鼓」を出版しました。その一節には「夏は暑いが夏の道、冬は寒いが冬の道、人には人のまことのみち、この誠にさへたがわねば、家もととのい、国治まる」と記しています。当時は暖冬や冷夏による飢饉によって多くの人が死亡しています。世の中の道理の実現は簡単ではなく努力することが重要となります。
太田垣猶川の弟子の一人に、八鹿村の西村潜堂(にしむらせんどう)がいました。西村潜堂は八鹿諏訪町に心学講舎として立誠舎を開きました。その後、但馬に帰郷した池田草庵も、ここで最初に漢学塾の立誠舎を開きました。
江戸時代の養父市には、関宮村に太田垣猶川の敬忠舎、八鹿村に西村潜堂の立誠舎、宿南村に池田草庵の青谿書院がありました。こうした私塾は、養父市の教育の源流となった先人の足跡です。養父市には200年も前から教育を大切にする伝統がありした。敬忠舎は養父市で最初に作られた学校となります。
註)石碑は、令和6年に山田風太郎記念館の西側に移転しました。
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