現在の八木町(東から)

現在の八木町(東から)

中八木にある愛宕社の正面(東から)

中八木にある愛宕社の正面(東から)

下八木にある愛宕社(東から)

下八木にある愛宕社(東から)

下八木にある愛宕社の正面(西から)

下八木にある愛宕社の正面(西から)

下八木にある八木城交流館前の道路には、石垣の基礎の上に、コンクリート製の小さな愛宕社が西を向いて祀られています。そして西側に約460メートル離れた中八木の道路の端には、東を向いて小さな愛宕社があります。この二つの社は、一対の社として向かい合っています。

「須田庄(すだのしょう)風土記」(『関宮町史資料集第3巻』85頁)には、江戸時代に発生した「八木の大火」の記録があります。「其の翌年は、辻堂の前より又火事起こりぬ。頃は寛永十八年(1641)三月三日の夜半、春風樹をきり、平地の渕水は雲に上がり、草屋火となり天をこがす。あたり三町は一時の煙となりぬ。(略)先年(寛永十七年)谷川の大火に、背なか焼けさせ給う薬師如来と云はせ給い、西方寺の本尊と並びて坐す。いまだ末世ならずと観じける」と記録されています。

話は変わりますが、全国測量の一環として但馬を訪れた伊能忠敬の『測量日記』があります。その中の文化11年(1814)1月13日の所には「下八木村家数八十六軒、中八木村同四十五軒、上八木村同四十二軒、合三ケ村、町並人家続き、惣名八木町と云ふ、合百七十三軒」と記録されています。

寛永17年に「谷川(今滝寺川の付近)の大火」で辻堂(薬師堂)付近が焼け、背中が焼けた薬師如来坐像が救出されました。寛永18年には強風で約三町(約330メートル)が灰塵となりました。辻堂の場所は、下八木から今滝寺に分岐するT字路付近と推定しています。八木町173軒の内、下八木から中八木にかけて120軒以上の民家が全焼したと思われます。「草屋、火となり天をこがす。いまだ末世ならずと観じける」、という表現からは、世の中が終わるよう恐ろしい火災だったことが伝わってきます。

現在、江戸時代の山陰道に向かい合って2基の愛宕社が設置されています。おそらく「寛永の大火」が二度と起こらないように、火災にあった町の両端に火伏の神様である愛宕社を祀って、防災を祈願したのでしょう。後世に火災の教訓を伝える知恵として、愛宕社が受け継がれています。

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