まちの文化財(222)上垣守国と養蚕の国

更新日:2023年10月02日

養蚕秘録に記された上垣守国

養蚕秘録に記された上垣守国

日本語の養蚕秘録

養蚕秘録の中身

上垣守国の墓地

上垣守国の墓地

フランス語の養蚕秘録の表紙

フランス語の養蚕秘録の表紙

上垣守国は宝暦3年(1753)に出石藩が治める大屋の蔵垣に生まれました。

守国は18歳の時、陸奥国福島地方を訪れて先進地の養蚕を学び、優れた蚕種を持ち帰って但馬・丹後に広めました。寛政9年(1797)の記録では、福島県伊達市伏黒の佐藤与惣左衛門を訪れて103枚の蚕種を仕入れ、金9両銭50文(一説には約160万円)を支払っています。天明3年(1783)からは蔵垣村の庄屋を務めました。

享和3年(1803)、上垣守国は『養蚕秘録』という養蚕の指導書を出版しました。この本は、出版から45年後の嘉永元年(1848)にフランス語版がパリで出版され、ヨーロッパの養蚕技術の改良に貢献しました。このため「日本技術輸出の第1号」と言われています。

このころヨーロッパでは蚕の伝染病が蔓延していました。そこで、元治元年(1864)、フランス政府は微粒子病原菌のない日本に蚕種の提供を依頼しました。江戸幕府の将軍徳川家茂は、15,000枚の蚕種をフランス政府の皇帝ナポレオン3世に贈りました。こうした時代の中で、フランス語版の『養蚕秘録』は、日本式の養蚕を伝える技術書として広くヨーロッパで読まれました。その結果、フランスの養蚕業や製糸業が発達しました。

養蚕技術の改良と普及に勤めた守国は、文化5年(1808)56歳で亡くなりました。蔵垣の上垣家墓地にある守国のお墓の正面には「上垣守國墓」、側面には「諸州を巡歴してその見聞の実否を察し、刻苦百端、其術ますます熟す。著書名づけて養蚕秘録という」と刻まれています。法名は随眞院桑譽聞流廣渡居士ですが、多くの功績によって上垣守國という実名が刻まれたのでしょう。

『養蚕秘録』は、明治期にも蚕業の教科書として読み続けられ、近代的な養蚕業の発展に貢献しました。そして養父市は、明治・大正・昭和にかけて兵庫県下で最も養蚕業や製糸業が発展し、兵庫県の「養蚕王国」とも言われました。

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