期間:令和8年5月から令和8年8月2日
天正8年(1580)6 月、織田信長は但馬国の4郡(朝来・養父・気多・七美)を治める領主に羽柴秀長を任命し、竹田城に入れたと言われています。
天正8年6月25 日、41 歳の秀長が与えた鮎漁免許状が但馬に伝わっています。その一つが網場村の弥兵衛に出した書状です。これには「鮎川の儀、今日より申し付け候、異儀有るべからず候、其のためかくの如く候なり、羽柴小一郎 長秀 天八 六月廿五日」と書かれています。「天八」は天正八年の省略です。
他にも5月15 日には岩中村(豊岡市日高町岩中)の4人に対して1 枚の鮎漁免許状を与えています。こうした書類は、秀長が但馬平定の戦闘において川舟を輸送に協力させた恩賞であり、円山川の水運整備にも関係するものです。
また、養父(薮崎村)の太郎左衛門には「諸公事免許せしむのところ、違儀あるべからず候なり、小一郎長秀 (天正8年)八月十三日」という書状があります。羽柴秀長は、天正元年(1572)頃、主君の織田信長から一字を拝領して「木下小一郎長秀」と名乗りました。そして羽柴秀吉が天下を掌握した天正12年(1584)9月頃には「羽柴美濃守秀長」と名乗ります。秀長と改名して主君は秀吉だと宣言しました。
小一郎長秀と署名した書状は、全国で約30点しか現存しない貴重なものであり、養父市を治めた羽柴秀長の足跡を示す証拠です。

羽柴秀長の書状

天正8年6月25日書状

(天正8年)8月13日書状
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