草庵百話ー『肄業餘稿』より
草庵百話 『肄業餘稿』より/米田啓祐さん編著
草庵百話
学問は進まないが(四七一)
既にして山陰に還り、地を青谿に卜し、茅舎を結びて以って棲む。渓山明媚、風光清秀にして、深く素願にかなう。慶快に勝えず。惟歳月侵尋、両鬢霜を帯びるも、学は進を加えず、初心に辜負す。此れを憾みと為すのみ。
<若いとき、山陰の地に帰り、住まいを青山川の流れているほとりに青谿となづけている所に定め、茅葺きの家を建てて住んでいる。谷や山は明るく美しく、自然の景色は清らかで、私の願いにまったくぴったりとあっている。喜びでいっぱいである。ただ、年月は進んでゆき、両耳のわきに白いものが出始めても、私の学問は進んでおらず、初心にそむいたようなありさまである。このことだけが残念なことだ。>
大みそか(四六九)
嘗つて歳除に方り、人忙しく我カンたり。因って自ら一詩を賦して曰く、西舎は牙籌旧債を追い、東家は松竹新年をむかえ、年来たり年去り吾れ何ぞ与らん。閑に対する清香一縷の煙。
<昔、大晦日に人々は忙しそうで私はひまであった。その時、一つの詩を作った。「西の方の家ではそろばん片手に旧年の借金を心配し、東の方の家では、松竹を飾り新年を迎えようとしている。やって来る年があり、去って行く年があるが、私には関係ないことである。私は、清らかな香の一筋の煙に向かって静かに座っている」>
老梅(四六八)
前庭に又一老梅あり。改春花開くごとに、手もてその枝を折り、これを瓶裏に挿し、几に憑りてこれを玩べば、幽趣自然にして、意甚だ適えり。
<前庭には一本の古い梅の木がある。春が来て花が咲くごとに、その枝を折って瓶に挿し、肘掛に寄りかかってこれを眺めていると、静かで奥深い趣がしてきて、楽しいものだ。>
昔のこと(四六七)
余、昔、京にあり、跡を市井に託す。暄囂塵埃甚だ厭うべし。然れども夜に入り更深きに及びてや、四隣寂寥、漸くにして月、天に中すれば、則ち屋後の小松の樹影、紙窓に移り、微風に動き揺れ鬖鬖然たり。予、臥してこれを観るに、宛も身は猶深山空谷の間にあるがごとし。
<私は、昔、京都にいて街中に住んでいた。やかましく騒がしく、ほこりっぽくいやなものだった。しかし、夜になり、やがて深夜になると、隣近所静かになり、ようやく月が空高く昇る。そうすると、家の裏にある小さい松の木の影が、窓の障子に写り、かすかな風に乱れながら揺れ動いていた。私は横になりながらこれを見ていると、あたかも、自分は奥深い山中の人けのないさびしい谷間にいるような気持ちであった。>
志を忘れず(四四九)
是の故に志あるの士は、慮らざるべからず、力めざるべからず、苦しまざるべからず。苦を厭いて力めざるものは、極めて其の志なきを見る。
<志のある人は、いろいろと考えなければならない、努力しなければならない、苦しまなければならない。苦しみを嫌がって、努力しないものは、その志がないということだ。>
慚愧にたえず(四三三)
ああ初心の自ら待つ所、同志の我に期する所、果たして是れ如何。而れども成就のかくのごときに止まるは、是れ我のテキ然として慚愧に勝えざるゆえんなり。
<ああ、初心で目指したこと、同志の私の期待すること、果たして何であったか。それにしても、自分を完成させていくことがこのようなところに止まっているのが、身につまされ、恥じ入るばかりだ。>
慚愧にたえず(四二九)
予、年稍遅暮に迫る。平生を回視し、慚愧に勝えず。
<私は、だんだん年をとってきた。普段の生活を振り返ってみると、恥じ入るばかりだ。>
貧しくても(三八二)
糗を飯い艸を茹い、将に身を終えんとするがごときは、是れ歴山の高情。肘を曲げ水を飲み、楽しみ其の中にあるは、乃ち洙泗の逸興なり。
<孟子の文にあるように、帝王舜が歴山を耕していたころ、乾かした飯を食べ、粗末な野菜を食べ、それで一生を終えようとしていたのは、貧賎にとらわれないりつぱな心の持方であった。また、論語にあるように、粗末な住まいで、肘を枕にして寝、水を飲んで暮らす、こういう中にも楽しみがあるというのは、孔子の貧賎を超越した風流な味わいのある生き方である。>
哀しむこと哀しまないこと(三七一)
哀しみを過ぐすは固より不可なるも、哀しまざるも亦人情にあらず。此の間極めて処し難し。
<哀しみの度が過ぎるのはもちろんよくないが、哀しまないというのも、人の道ではない。この二つの間がどうあればいいかが極めて難しい。>
長女を亡くす(三六九)
父子の愛は、蓋し天性なり。其の哀しみは固より亦天理なるも、惟或いは自ら遣る能ずして、其の常度を失い、以って生を傷るに至らば、則ち是れいわゆる哀しみの、節に当たらずして過ぐるもの、慎まざるべからず。
<父と子の間の愛は、天性のものである。その哀しみも、また、天与のものであるが、自分で押さえることができず、狼狽して取り乱し、哀しみの度がすぎることになれば、それは哀しみと言えるものでなく、自分を見失うことになり、慎まなければならない。>
長女を亡くす(三六八)
余、頃一長女を亡う。其の哀情の発する、自制し難きものあり。
<私は、最近長女を亡くした。その哀しみの思いが湧き出てくるのを押さえるのは大変難しい>
老いても(三六一)
謂う勿れ、老いたりと、老いて益奮う。謂う勿れ、窮まれりと、窮まりて、益固し。巳にして固く且つ奮えば、以って吾が学を成すべきに庶幾からん。
<簡単に言うな、老いてきたな、と。老いて益々やる気が出ている。簡単に言うな、もうおしまいになってきたなと。おしまいになってきて益々信念が固いものとなっている。信念が固くやる気があれば、自己の完成という私の学問が成就するのも近いだろう。>
仁義が身につくと(三五三)
これを物に推せば、則ち家斉い国治まり、天下和平、以て動植の物、昆虫飛走の微に至るも、亦其の所を得ざるものなきなり。
<これを自分自身以外のことで考えると、家は整い、国は治まり、世の中は平和で、動植物、昆虫にいたるまでみんな、その生まれがいのないものはないということだ。>
読書に飽けば(三四六)
然らば則ち書を読み義を講ずるの間、厭倦する所あれば、則ち此の数件のごとく、時に或るひはこれを為すこと、亦必ずしも禁ぜざる所なり。
<そうであるなら、読書や講義にあきた時に、このようなことをすることは、やめなくてもいいことだ。>
国にとって大切なこと(三一三)
鋼常倫理は、国の元気なり。元気盛んなれば則ち支体に傷害ありといえども、身は未だ死するに至らず。倫理明らかなれば則り辺境に虞ありといえども、国は猶お保つべし。
<人としてのあり方や生き方(鋼常倫理)が、国のあり方の根本である。例えば、根本の気力が盛んであれば、手足や体に少々の傷があっても、体は死なない。同じように人の生き方がはっきりしておれば、たとえあちこちで何かもめごとが起っても、国の存在はそのままである。>
雪降る日(三〇一)
吾隮、家にありて爐を擁し茵に坐し、以って寒気を防ぐ。而れども彼は則ち雪天に行歩し、前に仰ぐべきの食なく、後に帰るべきの家なし。泥塗に蹩さつし、手足凍冷、斃れて死すを以って幸いと為す。嗟乎一に何ぞ其の窮まりて此に至るや。
<私たちは家では、いろりを囲み、敷物に座って、寒さを防いでいる。しかし、あの人たちは、雪空の中を歩いている。前に食物があるわけでなく、後ろに帰るべき家もない。ぬかるみの中で、足をとられながら、手足体は凍え、倒れてそのまま死んでしまうのさえ、まだ幸せのうちだとなってしまう。ああなんということだ。>
雪降る日(三〇〇)
丙寅冬十一月十二日、雪降り天寒きとき、一婦人あり、児を負ひて食を乞う。蓋し其の夫、明を失ひ以って生を為すなく、因って相ひ倶に乞丐し以って日を度るものなり。家人起きて食を与うれば、則ち背児、色喜び、夫婦従ひて拝謝す。予これを聞きて覚えず惻然として心を傷む。
<慶応二年冬十一月ニ日(草庵五四歳)、雪が降り寒空のなか、一人の婦人が子どもを背負ってきて、食べ物を求めた。というのは、その夫は失明し、生計をたてることができなくなっているのだ。それで一緒に、人から食べ物を求めては日を過ごしている。家の者が起きて、食べ物を手渡すと、背負われた子どもは大変喜び、夫婦もそろって拝むように何度も礼を言った。私はこのことを聞いて、悲しい思いで心が痛んだ。>
努力すれば人となる(二九四)
功を用うれば則ち人と為り霊と為り、功を用いざれば則ち禽と為り獣と為る。乃ちこの裏より自ら趣舎を択び、以って其の志を立てざれば、則ち真に是れ一庸懦の小人のみ。
<人が努力すれば、人は人となり、さらにりっぱな人にもなることができる。努力をしなければ、鳥や獣と同じようなことになってしまう。そのようになるか、自分で選択して、その志を立てないと、ただの平凡なつまらない人になってしまう。>
名誉を求める気持ちなく(二六六)
少壮巳に過ぎ、脱然として、益声華の念を厭う。老大漸く迫り、テキ然として深く結果の功を思う。
<若いときは既に過ぎ、さっぱりとして、名誉を求める気持ちがなくなった。老いがようやく迫ってきて、口はばったい言い方だが、今までの努力が結果になって表われてきたことを思う。>
本を選ぶ(二六五)
吾が輩、限りあるの生を以って限りなきの書籍に従事す。固より自ら其の歳月の給する能わざるを知るなり。因りて謂えらく「大凡事を記すの書、天下の治乱安危に関わらざるものは、則ち敢えてこれを読まず。理を明らかにするの書は、学術の汚隆明晦に係わらざるものは、則ち敢えてこれを読まず」と。かくのごとく志を立てて、埋頭理会せば、則ち天下古今有用の缺くべからざるの書は、其の、読過一周するを得るに庶幾からん。
<私は、限りある生の中で限りない本を読もうとしている。もとより、その歳月はそれらを読むのには十分ないということは、わかっている。それでこう考えている。「社会的な事実の書物は、世の中のあり方に関係しないものは、あえてこれを読まない。学問の理論についての書物は、学問の盛衰や学問を明らかにするものでなければ、あえてこれを読まないと」と。このような志を立てて、一生懸命集中すれば、天下古今の欠くことのできない大切な書物の大半が読むことができるのではないか。>
父母の恩を思うこと(二六四)
毎日須く父母の生鞠拊育の恩を思量すべし。この念提起一番すれば、随って自愛の心生ず。然らば則ち体膚を毀たず、躬行を虧かず。匪類と交わらず、醜穢に堕ちず、戦戦兢兢として、この身を保全するは、亦勢いの必ず至る所なり。這れぞ此れ人子の第一件にして、喫緊肝要の事目なり。
<毎日、生み育んでくださった父母の恩を思い返さなければならない。この思いがいつでもあれば、自分を大事にする心が生じてくる。そうすれば、身体を粗末にすることはなく、自分のしなければならないことを怠けることはなく、悪い仲間とは交わらず、醜く汚らわしい世界におちず、おそれつつしみながら、自分の身を大事にしていくようになることは、当然のことである。これこそ、人の子として第一にしなければならない大切なことである。>
夫婦の間(二二九)
夫婦の際は、相い楽しまざるべからざるなり。而るに淫を慮る。相い哀しまざるべからざるなり。而るに傷を慮る。而して窈窕閑雅、貞静純一、此れぞ是れ閨門の儀則なり。「関睢」一篇の要旨、かくのごときに過ぎず。
<夫婦の間は、お互いに楽しめばよい。しかし、楽しみの度が過ぎるのはよくない。共に悲しめばよい。しかし、悲しみの度が過ぎるのはよくない。美しく上品で、心正しく穏やかなこと、これが夫婦の間の大事なきまりである。(詩経にある)「関睢」という夫婦の間について述べた詩の要旨は、まとめるとこのようなことに過ぎない。>
西洋の通商(二二四)
其の利を得て未だ病を見ざるに方りては、則ち以って此れにあらざれば、則ち以って国を立つなしと為す。而れども一旦、利尽き病生ぜば、則ち亦恐らくは臍を澨むの悔いあらん。
<儲けだけ得てまだ弊害を見ない者は、これでなければ、国は成り立っていかないというだろう。しかし、儲けが或る程度までいって、後、弊害が出てくると、おそらくほぞを噛む思いで後悔することだろう。>
西洋の通商(二二三)
利を外国より得る者は、亦病を外国より受く。利病相半す。此れぞ是れ必然の理。
<儲けを外国から得る者は、また、弊害を外国から受けているのだ。儲けと、弊害はそれぞれ相半ばしているのだ。これは、当然の理屈である。>
西洋の通商(二二二)
利の多きは、以って其の衣服を美とし其の飲食を甘しとし、而して其の居処を飾るに過ぎざるのみ。而れども国家の、永久に廃せざるゆえんのものは、固より此にあらず。
<儲けの多いということは、それによって衣服を派手にし、飲食を豪華にし、住まいを飾るだけのことである。しかし、国が永久に亡びないためのものは、もとよりこんなところにはない。>
西洋の通商(二二一)
西洋の諸国は、通商を以って国を立つ。其の利を得るはより多し。而るに亦らくは病を免れざらん。
<西洋の国々は、貿易で国が成り立っている。だから、それによって儲けを得ることが多いだろう。しかし、また、おそらくそれによる弊害も免れることはできないだろう。>
共に責任をはたす(二〇八)
山人、今汝輩に向かいて勧説することかくごときは、特に汝輩の為のみにあらざるなり。山人も亦自ら其の一日の責を尽す所以なり。
<私が、今みんなに向かってこのようなことを説き勧めるのは、みんなのためにのみ言っているのではない。私自身も、また、私の一日の責任を努め果たすためである。>
学問をするからには(二〇七)
男児幸ひに生を天壌の間に受け、樹立する所ありて以って其の名を成す能はずして、草木と同じく漸尽泯滅に帰るするは、豈に惜しむべきの甚だしきにあらずや。
<男としてこの宇宙に生まれ、一人前になってその名をなすことができず、草や木とおなじように枯れてしまうなら、なんとおしいことではないか。>
学問をするからには(二〇六)
諸生、親に辞し糧を裹み、遠く来りて相ひ隨うは、皆此の学の為なり。而して終年果たして得る所なくんば、則ち家に帰るの後、何の面目ありて、復た郷里の父老に対せんや。
<みなさん、みなさんは親と別れ、食料を用意をして、わざわざ遠くからきてみんな相集うのは、この学問をするためです。それなのにもし、一年経っても自分に得るところがないとするなら、家に帰ってから、どんな顔をして、郷里の親に会うことができるのですか。>
礼儀(二〇五)
容貌粛ならず。視聴専ならず、心意虚ならざれば、則ち仮使講に侍して年歳を経るとも、此の学に於いて果たして何の得る所ぞ。
<服装や身だしなみが引きしまったものでなく、見たり聞いたりするときに集中することがなく、心に雑念が多くあれば、例え講義に出席して何年たっても、ここで得るものは果たして何があろうか。>
礼儀(二〇四)
諸生は講習の間、容貌は須く粛なるべく、視聴は須らく専なるべく、心意は須く虚なるべし。然る後聞く所の話は始めて能く領会し了わるを得。
<みなさんは講義の間は、服装や身だしなみはきちんとし、見たり聞いたりするときは、そのことに集中し、心の中は雑念などなくして真剣でなければならない。そのようにしてこそ、聞く話がよくわかるのである。>
親孝行(一九〇)
古人云わずや、「父母は惟其の疾をのみこれを憂う」と。此の話偏えに爾輩黙黙として参透し得去らんことを要す。
<昔の人(孔子)が言っている、「父母はひたすらに子供の病気のみを心配している。だから身体に注意して健康であることが親孝行である」と。この話、みなさんはよくよくかみしめて、その奥底の本質をつかんで欲しい。>
読書のあいまに(一八九)
書を読むに方りては、専精矻矻。意を放つに方りては、歩みに信せて従容。亦正にいわゆる一張一弛の道なり。
<書物を読むときには、それに集中し努力する。心を解放したいときは、足の向くままに歩いてのんびりとする。これが、心を張りつめたり、弛めたりする(一張一弛)方法である。>
読書のあいまに(一八八)
山頭に花を摘み、谿辺に魚を釣る。読書の余暇は、時に或ひは放意これを為すを妨げず。
<山のほとりで花を摘み、谷川のほとりで魚を釣る。読書をした後の時間は、時には自由に気ままにしている。>
家と塾で(一八六)
家にありては則ち子弟の職を共にし、館に入りては則ち師長の教を奉じて、敢へて背違せざるは、乃ち是れ爾輩の日用切実の功夫なり。
<家にいるときは、兄弟たちとともに生活し、塾に来れば先生や年上の人たちの教えを聞き、背かない。すなわち、こういうことが君たちの毎日の生活の中でとても大切なことなのだ。>
読書と実践(一七ニ)
読書は精を貴び、用功は実を貴ぶ。此の二者は君子の、学を為すゆえんなり。
<読書は丁寧に詳しく読むのがよく、日々の実践努力は実際の行動をしていくことが大切である。この二つのことは、すぐれた人が学問をしていくのに欠かせないことである。>
自分をあざむかないで(一四三)
人は、欺くべきも、自らは欺くべからず。人は瞞すべきも、自らは瞞すからず。欺くべからざる処は敢えて自ら欺かず。瞞すべからざる処は敢えて自ら瞞さず。慎独戒懼、収摂保任、此れぞ是れ静中功を用いるの力なり。
<他人は欺くことができるかもしれないが、自分を欺くことはできない。他人はだますことができるかもしれないが、自分をだますことはできない。欺くことができない自分を、あえて欺かない。だますことができない自分を、あえてだまさない。このようにじっくりと自分を見つめて行う独りを慎む(慎独)ということを、自分の戒めとして心がけ、大切にして守る、これこそ静坐において最も大事なことである。>
自分をあざむかないで(一四二)
試みに静中に向いて黙々として体験すれば、則ち理欲混淆して、粉然として湧くがごとし。禁ずるも止まず。制するも伏せず。乃ち初めて知る、自己は元是れ頑鈍、元是れ庸劣、元是れ種々の病痛あり、極めて料理し難きを。
<静坐しているときに、試しに静かに自分の中に起こってくることを振り返ってみると、天の理と私の欲望が入り交じり、入り乱れ、つぎつぎ湧いている。禁じようとしても止まらないし、抑えようとしてもおさえ>
静坐は学問(一四〇)
「伊川は、人の静坐を見るに毎に、便ち其の善く学ぶを嘆ず」静坐は実に是れ学問深切の功夫なり。
<「伊川(北宋の儒学者)は、人が静坐しているのを見るたびに、よく学問をしているなと感心していた」という話がある。本当に、静坐こそ、自分をつくっていくための学問を深める方法である。>
独りを慎む(一三七)
此処に力を得れば、則ち一たび是ならば百たび是なり。此処に功を失えば、則ち一たび錯てば百たび錯つ。古人の学の、一人を慎むを宗と為すゆえんなり。
<自分を知るということができれば、すべてが良くなる。そのことができなければ、どこまでも過ちのままになる。昔の学問で、自分一人ででも修養していく「独りを慎む」ということが大事にされてきたのは、こういうことからだ。>
独りを慎む(一三六)
人の心体は本病なし。病は則ち妄より生ずるものなり。而して妄の物たる、悠渺恍惚として、殆ど識認し難れば、則り其の功を用うるや、亦必ず巌且つ密ならざるべからざるなり。
<人の心には、もともと欠点などないのだ。
欠点は、誤ったものの見方から起きてくる。自分についての誤った見方というのは、微妙なところがあって、はっきりと誤っていると知ることは難しい。だから、自分で努力して行く場合、厳しく綿密に自分を見つめていかなければならない。>
自分を知る(一三五)
自ら知るの後は、則ち須く其の病のある所よりこれを治むべし。而して以って其の病なき体に復すべし。
<自分を知った後は、自分の欠点や誤りを直していかなければならない。そして、その欠点や誤りのない状態にしなければならない。>
自分を知る(一三四)
夫れ人は須く自ら知るべし。自ら知らざれば、則ち以って其の功を用いるなし。
<人は、まず自分を知らなければならない。自分を知らないでいて、自分を高めるために努力することなどできない。>
果実のように(一一五)
余、果実の、樹にあるを観るに、其の始めは色青く味渋し、時日を累ね風霜を経て熟するに及べば、則ち葉落ちて枝枯れ、累然として珠のごとし。取りてこれを喫せば、珍羞の美といえども、殆んど若かざるものあり。噫、人も亦老大の身を以ってするも、胸中尚お渋味の存するあれば、則曽ち此の果にこれ如かざるなり。
<私が、果実が樹にあるのを観察すると、初めは色も青く味も渋い。日時を重ね、厳しい風や霜にあたって熟してくると、葉は落ち枝は枯れて、実は重なりあい輝く珠のようになる。取ってこれを食べてみると、他にどんなに珍しくて美味しいものがあっても、これに及ぶものはないと思えるほどでおいしい。ああ、私も老いたといっても、胸中にはまだ渋みが残っており、とうていこの果実に及ばない。>
老いてきて(一一四)
鏡を把りて自ら照らせば、両鬢白きもの生ず。因りてテキ然として警省するの念なくんばあらざるなり。蓋し書を読むこと年ありといえども、悠々泛濫して、率空過に属す。今に及びて実效を収めざれば、則ち一生の建豎、果たして是れ何物ぞ。昔人のいわゆる臘月三十日は必定到来す。期に臨みて豈に能く手忙しく脚乱れざらんや。一念此に至れば、毛立ち神寒し。
<鏡を持って自分を写して見ると、両方の耳ぎわの髪の毛に白いものが見えてきた。それで、おそれ慎んで、反省せずにはおれない。書物を読むことに何年もかけてきたといっても、悠々のんびりと日常に流され、大方はむなしく過ごしてしまっている。今になっても、自分の力となるものが身についていないというのは、一生かかって打ち建てようとしてきたものはいったいなんであったか。昔の人がいう十二月三十日、すなわち終わりは必ずやってくるのだ。その時になって、あわてふためくことになるのだろうか。ここまで考えると、心寒くなってぞっとしてくる。 >
庭(一一三)
庭前の竹、数根叢を為す。風晨月夕、幽趣乏しからず。物の微といえども、亦以って自ら楽しむに足る。
<庭の竹が、幾本か重なり竹やぶとなっている。風の吹く朝、月の明るい夜など、それは静かで奥深いおもむきがある。小さな取るにたりないことであるけれど、私が楽しむのには十分である。>
志がある姿(一〇六)
日暖かく雪消え、風気微和たり。南窓の下、坐して悠然の思いあり。
<日の光は暖かく、雪は消え、辺りの空気はのどかである。南向きの窓の下に坐っていると、のどかな悠々とした心持がしてくる。>
志がある姿(一〇一)
寒を忍び苦を忍び、毎夜孤燈の下に就いて、孜孜として書を読む。極めて其の志あるを見る。
<寒さを我慢し、苦しさをがまんし、毎晩小さな燈の下で、こつこつと辛抱強く本を読む。こういう姿の中にこそ、本当の志があることがわかる。>
自分のものとして(九二)
経を説くの道は、博引旁捜を要せず、又鋪張太過なるを要せず。而して要は身を以ってこれを体し、意を以ってこれを認め、当時の聖賢の意味気象を得るにあり。蓋し聖賢の意味気象は、元来聖賢にあらずして、自己の胸中にあり。ただ体し得て透り、認め得て真なるを要す。則ち説く所は仍是れ聖賢の書なりといえども、却って是れ皆自家屋裏の話にして、融液流通し、精神活溌にして、復た陳腐の気あることなく、世の窮経家と別なり。
<私が昔の聖賢の教えについて説くのは、あれこれと関係することを調べたり、飾り立てて誇張することもしない。肝心なことは、聖賢の教えを自分のものとして、心から納得し、当時の聖賢の気持ちや気性を知ることである。聖賢の気持ちや気性というのは、聖賢だけのものではなく、実は自分の中にあるのだ。ただそれを自分のこととしてよく理解し認めることができて、教えは真実となる。つまり説くことは聖賢の書物についてであるが、結局は自分の胸の中のことだ。そうすると胸の中がすっきりし、精神は活発になり、多くの人がするようなありふれた話にはならない。世の中の学者とは、私は違うのだ。」>
一年が過ぎていく(七六)
春は桜花を尋ね、夏は涼風を趁い、秋は月光を弄ぶ。転眄倏忽の間、徒爾に一歳の光陰を過ごし了はる。今歳此くのごとく、明歳又此くのごとくんば、到頭果たして是れ何の得る所ぞや。愴然として一嘆す。
<春は桜の花を尋ね、夏は涼しい風を求め、秋は、月光を眺めて楽しむ。またたく間に、一年間が終わってしまった。今年このようであったし、来年もこのようであれば、結局のところ得ることは、なにがあるというのか、悲しく寂しくためいきが出る。>
苦しさを味わって(六七)
盛夏猛暑、日光炙くがごときとき、打坐時を移し、満身汗流る。此の間宜しく些かの辛苦を喫し以って進取を図るべし。古人云はずや、「冬、炉せず、夏、扇せず、坐すに茵を設けず、行くに蓋を張らず。」と。
<真夏、大変暑く日光が焼けつくように照っているとき、静座を長い時間していると、体中に汗が流れてくる。このようにしばらくの間、苦しさを味わうことによってやる気を高めることができる。昔の人も言っているではないか。「冬には囲炉裏をせず、夏には扇を使わず、座るのには敷き物を使わず、外に出ても傘など使わず」と。>
教える者も学ぶ者も(六三)
教えて其の方を得ざるは、是れ教えるものの罪なり。学びて其の力を得ざるは、是れ学ぶものの過なり。教学道なく、群居游談し、嗇むべきの精神を糜し、得がたきの光陰を費やし、以って過ちを一生に担うは、是れ我と汝と、均しく其の責にあり。相共にテキ励警戒せざるべからざるなり。
<教えても、教え方が身につかないというのは、教えるものの責任である。いくら学んでも、その力が身につかないというのは、学ぶものの責任である。教えることと学ぶことがいいかげんで、ただ大勢が集まっておしゃべりをして、大事にしなければならない学びの精神を粗末にし、再び手にいれることのできない時間をむだに過ごし、そして、その過ちを一生負っていかなければならないというのは、私と諸君とに、お互いに責任のあることである。共に、注意して気をつけていかなければならないことだ>
塾の授業(六二)
易を読みて以って其の深奥を探り、小学を読みて以って其の規矩を守り、史を読みて以って其の世故を考え、而して傍ら、唐宗八家の文を読みて以って其の歩趨馳騁を習う。其れ然り而して後に以って徳を養ふべく、以って身を修むべく、以って変を制すべく、而して又以って文字に託してこれを永世に伝うべし。此れぞ是れ今日の吾が門の授業の次第なり。汝が輩宜しく此の意を知道すべし。
<「易経」を読んで、書かれている奥深いところを探求し、「小学」を読んで、日々の修行のきまりを守り、歴史書を読んで、世の中のことについて考え、唐宋時代の八人の文章家の文を読んで、その文体を習う。そうすることによって、徳を養い、身を修め、世の中の乱れを抑え、そしてまた、文字で書き記して、後の世に残していくのだ。これが、今日、私の塾でやっている内容である。諸君も、このことをよく知っておいてほしい。>
静かに坐ると(五五)
兀坐静黙の中、偶自ら思念するに、この念苛くも正しければ、則ち此の兀坐は、便ち是れ聖賢の矩矱なり。此の念苛くも妄なれば、則ち此の兀坐は、便ち禽獣の跧伏なり。必ずしも事に応じ物に接するを待ちて、然る後痕迹呈露せざるなり。而して此の兀坐静黙の中に、人禽の分巳に判然たり。体念此に至りて、心骨為に寒し。
<じっと静坐しているとき、いろんな思いが出てくるが、この思いが正しいものであれば、この静坐は、聖人にかなったやりかたである。出てくる思いがみだらなものであれば、この静坐の中に、獣がいるようなものだ。だから、必ずしも事件や物事にであってから、その人柄が出てくるものではない。このじっと静坐している中で、人間らしいか獣のようなものであるかがはっきりとするのだ。ここまで考えてくると、自分が恐ろしくなる。>
本の中の虫(五二)
蠧の虫たる、経伝を以って家となし、文字を以って食と為すものなり。其の色白皙、其の体脆弱にして、骨幹なく、筋力なし。狡黠にして善く逃げ、これを補うるに獲難し。而も終日害を幽暗不識の地に為して休まず。凡そ物の惡むべきもの、蠧に若くものなし。吾蠧説をつくる。而して世の蠧に類するもの、以って自ら警省すべし。
<蠧の虫(しみ)がいるが、書物の中に住み、書かれている文字を食べ物としている。その色は白く、その体は弱々しく、骨もなく、筋肉の力もない。ずるがしこくてうまく逃げて、捕まえるのが難しい。しかも、人の目に見つからないようなところで、いつのまにか人に害を与えている。この虫ほど憎むべきものはない。私は、このような虫から以上のような蠧の説を作った。世の中の蠧の虫のような学者は、自ら反省してほしい。
お茶を煎じ(五一)
風寒からず、日熱からず緑陰新たに成り、蝉の声湧くがごとし。泉を汲みて茗を煎じ、以って睡魔を消す。或いは晋帖に臨みあるいは唐詩を誦し、優游閑適、以って吾が生を養う。方に他人よりこれを観れば、則ち何の況味の言うべきあらんや。然れども吾が輩固より敢えてこれを以って三公に易えざるなり。
<寒くなく、暑くもなく、木々の葉は青々と茂り、蝉の声が盛んにしている。湧き水を汲んで茶をわかして、それで眠気を覚えます。そして、昔の書家の法帖を見たり、唐詩を声を上げて読んだりして、ゆったりとしながら自分の生を充実させている。他の人がこんな様子を見ると、どこに楽しみがあるのかというであろう。しかし、私にとっては、こういうことは、世の中の高位高官につくことなどに、替えることのできない喜びだと思っている。>
生計ほぼ足る(五〇)
泉石盤陀の上、老松三五株あり。左右に激湍あり、屋を其の間に架す。菜を喫い水を飲み、生計粗足る。書を童に課し鶴糧を検し、間事数件の外、他の塵粉の、吾が閑を妨ぐるなし。此れぞ是れ吾が輩の平生最も得意の境。然れども人各好む所あり。強いてこれを人に施すべからざるなり。
<水が流れ、岩の多い山間、古い松が数本立っている。左右に流れの早い瀬があり、その間に粗末な家を建てている。野菜を食べ、水を飲んで、これで生活はほぼ十分である。子供たちに書物を読むことを教え、わずかの食糧を気にかけ、そして幾つかの雑事があるだけで、他の煩わしさが私の悠々とした生活を邪魔することはない。これこそ私の、普段最も満足する生き方である。しかし、人はぞれぞれ好むところがあるものだ。強いて人にこのような生き方を押しつけるつもりはない。>
物で志を喪う(四九)
甚だしきかな玩物の弊たるや。其の初めは則ち以って一時の消?の具たるに過ぎず。既にしてこれを好むこと漸く深ければ、宛も饑食渇飲の復た闕くべからざるがごとく、終には沈溺迷惑して、顧忌する所なし。寧ろ性命を決してこれに趨る。嗚呼、其の弊たるや尚し。
<物にのめり込むことの害ははなはだしいものだ。その初めは、退屈しのぎの物にすぎない。そのうちに、だんだんこれが好きになって少しずつはまっていくと、まるで食べ物に餓え、喉が渇いて飲み物が欲しくなるように、その事にふけりおぼれ、夢中になり、命がけで求めようとする。ああ、その弊害はひどいものだ。
華やかな富も草の上の露(四四)
人寿百年、赫奕たる富貴は、仮令以って平生の懐抱に快くとも、然れども達者よりこれを視れば、則ちまた是れ岩前の雲、草上の露のごとくにして、曽ち以って吾が胸中に掛くるに足らざるなり。而るに世人役役としてこれを求めて止まず。適に以って其の惑いを見るに足るのみ。
<人の寿命は百年、だから、輝くような富は日々の生活には胸一杯に快いもののようであっても、物事の分かっている人から見れば、できたばかりの雲や草の上の露のようにはかないもので、私が心に掛けるほどのことではない。そうであるのに、世間の人は、身や心をすり減らしてまでこれを求めようとしている。後は、そのことからくる悩みや、迷いを見るだけである。>
夜中に目覚めて(三九)
夜来早く寝に就き熟睡し、一枕直ちに五更に至りて覚む。枕上黙々として、平生を回思す。顕然たる大過なしといえども、隠微の間、物に徇い慾を恣にし、悔ゆべきもの鮮からず。因りて爽然自失し、一旦改励の念を有す。
<昨夜は早く寝て熟睡し、一眠りして明け方近くになって目が覚めた。床に座って静かに日々を思い返してみる。大きな過ちはないものの、目立たないようなところでは、物にとらわれ欲の出てくるままにしており、悔いることも少なくない。だから、ぼう然として自分を失いそうになるが、すぐに気を取り直して、がんばらなければと思う。
書かせる(二六)
諸生を召し業を肄はしむ。蓋し口中自ら語を占べ、彼をしてこれを書せしむ。亦以って其の字を用ひ句を作らしめば、顛倒上下、措置、法あると否とを試みるに足るなり。
<塾生に課題を与えて勉強させる。私が言葉を述べて、彼らにそれを書かせるのだ。そして、その書いた語句を使って漢文を作らせれば、それが漢文の文法にあっているかどうか見るのに十分だ>
水の音(二五)
深谷水を引き、山に傍いて迤る。これを書窓の前に注げば、其の声潨然たり。静かにこれを聴けば、則ちまた以って耳中の塵垢を洗うに足る。
<谷の奥から水を取り、山に沿って引いてくる。これを自分の部屋の前に流れ落ちるようにすると、水の音がひびいてくる。静かに水の音を聞いていると、耳の中に残っているいろいろのつまらないことが、きれいに洗われていくようだ。>
緑陰(二四)
緑陰新たに成り、青苔塵なし。莚を設け茶を煎じ、聊か世外半日の游を為す。
<緑陰が広がり、青い苔がきれいだ。莚をしいてその上でお茶を煎じ、しばらく、世の中から離れてゆっくり過ごす。>
山を背にして(二一)
山を背にして谿に向かい、纔かに茅宇を結び、棲遅偃仰、以って吾が身を終う。詩に云わずや「優なるかな游なるかな。以って歳を卒うべし」と。
<山を背にして谷の方を向いた粗末な茅葺きの家を作り、そこで静かにのんびり過ごして自分の一生を終える。(詩経の中の)詩にあるではないか、「ゆっくりと、のんびりしていることよ。こんなにして一生を終わりたいものだ」と。>
部屋に不要な物はない(一五)
環陼の室は、蕭然として他の長物なし。机一脚、香一炷にして、独りその間に坐して、黙々参究す。嗚呼、此れ吾の学を為す所のものなり。
<自分の小さな部屋は、すっきりとしていて余分のものは、なにもない。机が一つ、そして、香の煙が一本立ち上がっているところで、独り坐って静かに自分を見つめ、自分を窮めようとしている。ああ、これこそ私が学問をしているといえる姿だ。>
決まりをおろそかにしない(一〇)
諸生、毎朝早く起き、盥漱梳櫛し、書室を掃き、机案を拭き、襟を整えて坐す。筆硯紙墨、皆定位あり。此れ我にありては、即ち今日受用の規矩法度にして、忽略にすべからず、怠慢すべからず。
<みなさんは、毎朝早く起き、顔を洗い口をすすぎ髪をとき、部屋の中を掃き、机の上をふき、衣服を整えて机に向かいなさい。机の上には、筆、硯、墨、紙、みんな置くところが決まっていること。このようなことは、今、自分の守らなければならない決まりとして、おろそかにしてはいけないし、いいかげんにしてはいけないのだ。>
分に安じる(二六一)
安分の二字、千古聖賢の学、此に尽く。
<昔から聖人の学問は、今のままでよいという、自分に満足する意味の「安分」の二字に尽きる。>
黙々として(一六二)
身を千巌万壑の中に埋め、黙々として独り古道を遺経に求め、将に以って千歳不磨の図を為さんとす。此れ予の私心自ら期する所のものなり。知らず、果たして能く其の志を遂ぐるを得るや否やを。
<まるで自分を深く険しい山の中に入れるようにして、黙々と聖賢の残した書物の中に道を探し求め、永久に残るものを作り上げようとしている。これは私自身が願い期待してることである。この志が、よく遂げられるどうか。>
志が高く大きいと(三七)
奥羽の行を為さんと欲するものは、東都の道を易しとし、東都の行を為さんと欲するものは、京師の道を易しとし、京師の行を為さんと欲するものは、郷閭の往来を易しとす。然らざれば即ち志気懶散し、衰弱萎爾して、堂階底除の間すら、尚歩趨をはばかる。是の故に人の志を立つるは、遠く且つ大ならざるべからざるなり。後来の成就は良に此れに由るのみ。
<東北地方に行こうとするものにとっては、江戸まで行くのはわけないことであり、江戸に行こうとするものにとっては、京都まで行くのはわけのないことであり、京都まで行こうとするものにとっては、自分の村の中を行き来することはわけのないことである。めあてを遠くに置くのでなければ、やる気は散漫となり、長続きせず萎んでいってしまい、庭先のほんの短い間すら、歩くのがおっくうになるものだ。だから、志を立てるのは、遠くそして大きなことにするべきだ。将来、事が成し遂げられるかどうかは、このことにかかっている。>
志は高く実践は身近なことを(一九)
志は高遠を期し、功は切近を貴ぶ。志、高遠ならざれば、則ち自足し易いく、功、切近ならざれば、則ち学は実效なし。
<心は、高く大きく持ち、それを実現するための実践は身近な事からが良い。志が高くないとすぐに満足してしまいやすく、また、実践が身近で具体的な事でないといくら学んでいても、何も身につかない。>
心を励まして(一六)
歳方に杪冬、光陰幾もなし。精を励まし書を読み、此の微效を翼う。
<冬も終わっていく、年月はそんなにない。心を励まして書を読み、わずかでも効果のあることを願っている。>
米粒のようなものだが(七八)
天地万物は此のごとく其れ夥し。而るに人の其の間に於けるは猶お倉廩の一粒の米のごとし。則ち此の身は豈に珍重すべきことの甚しからずや。然れども褻弄慢侮して、以って一生を誤る。果たして是れ誰の罪ぞ。豈に愧死せざらんや。
<天地万物にはたくさんの数え切れない程のものがある。人はその間にあっては、米倉の中のたった一粒の米のようなものだ。だからこの一人の身は尊重しなければならないことはもっともなことではないか。しかし、そんなことに慣れて自分の身を玩び、あなどり軽んじて過ごして、一生を誤ったものにしてしまう。これは誰の罪であるか。まことに深く恥じることだ。>
外を整えて(九)
古人言えるあり、いわく、「席正しからざれば、座せず」と。それ席の正不正、何ぞ此の身に関わらんや。しかれども必ず正してしかる後坐するゆえんのものは、蓋し内正しければ則ち自ら外の正を好む。而して外の正、亦以ってその内を養うに足ればなり。是れ内外峡持の方なり。
<昔の人(孔子)がこう言っている。「座るところがまっすぐ整っていなければ、座らない」と。座るところがまっすぐしているか、曲がっているかなど自分にはなんの関係ないようなものだ。しかし、必ずまっすぐにしてから座るというのは、心の中もまっすぐ整っているから、自然と外にあるものもまっすぐしていることを好むのだ。だから、外にあるものがまっすぐ整っていると、ひるがえって人の心もまっすぐ整えるのに役にたつのだ。内と外が互いに支えあってできるこのような心の育て方を、内外挟持の法という。>
自分に負けない(四一)
学の成り難きゆえんのもの、余窃かに其の故を究むるに、他なし。嗜好情欲其の内を乱し、飢寒困窮其の外に迫り、屈抑沮敗し、終に挺特墳発以って進取を期す能わざればなり。余を見るに亦多し。戒ざるべけんや。
<学問が、成就するのが難しいわけを私なりに考えてみると、他でもない。自分の好みや欲望が自分の内から起こって心を乱し、飢えや寒さや貧しさが外から迫り、それらに負けてしまって、ついには、心を奮い起し進んでがんばってやろうとすることができなくなるのだ。私を顧みても、そういうことはとても多い。戒めずにはおれない。>
読書と仕事(九五)
書を読むと事に応ずると、判ちて二物と為すは、是れ学者の弊なり。古人云わずや、「事を執りて敬」と。苟くも此の処より功夫を下さざれば、則ち仮令万巻の書を読破すとも、究竟更に一字の用処なし。
<書物を読むことと、日常の仕事をしていくことを、二つに分けて考えるのは、学者のよくおちいる誤りである。昔の人(孔子)が言っているではないか。「日常の仕事をするときには、心をそのことに打ち込んで、行わなければならない」と。日常の仕事にもこのようにして努力していかないと、たとえ、沢山の書物を読んだとしても、結局のところ、その中の一字として役に立つことはない。>
志を忘れず(四四七)
学ぶ者は固く此の志を執り、寒の為めに怯えず熱の為めに阻まれず、埋頭研鑽、孳々矻々、必ず得る所あるを以って期と為す。
<自分を作っていくための学問をするものは、自分の志を常に忘れず、寒さや暑さのために学問ができないということなどないようにし、一生懸命研さんし、こつこつとはげみ、そうして、必ず得るものがあることを期待しよう。>
苦しい中でも志が奮い立つ(二一九)
順境を楽しまざるにあらざるなり。而れども其の志をして廃弛し易からしむるを憂う。逆境を苦しまざるにあらざるなり。而れども其の志をして振抜し易からしむるを喜ぶ。楽中に憂いあり、苦中に喜びあり。苦楽憂喜の境、畢竟なにか是れ真、なにか是れ実。
<順調にうまくいっていることを喜ばないわけではない。しかし、そのことによって持っている志がゆるんでしまう事を心配するのである。逆境を苦しまないわけではない。しかし、そのことによって持っている志がますます奮い立つことを喜ぶのである。楽しい中に不安や心配なことがあり、苦しい中に奮い立つ喜びがある。苦しんだり、楽しんだり、心配したり、喜んだりは、結局のところ、何が本当の事で、何が実際の事なのであろうか。 >
自分のこととして(一二〇)
大人は、其の世に在るや、天下の人これを尊びこれに親しむ。其の歿するや、後世の民これを哀しみこれを慕う。而るに不仁の人は、則ち人皆其の生を苦とし、其の死を幸いとす。
<仁者が生きている時は、みんなこの人を敬い親しむものだ。その人が亡くなれば、みんなこれを悲しみ、いつまでも慕うものだ。しかし、仁のない人は、生きているうちは、回りの人は迷惑がり、その人が亡くなれば幸いだとさえ思う。>
仁と不仁(一一八)
心の大小とは、果たして何の謂ぞや。大とは仁のみ、小とは不仁のみ。
<心が大きいとか、小さいとかいうのは何のことか。大きいとは、人を思いやり共に生きようとする仁がそなわっていること、小さいとはその仁がないこと。>
仁と不仁(一一七)
大人とは其の形の大なるを謂うにあらざるなり。 小人とは其の形の小なるを謂うにあらざるなり。蓋し人の、大と為し小と為すゆえんのものは、乃ち其の心の謂にして、其の形体の謂にあらざるなり。
<大人とは体が大きいことをいうのではない。小人とは体の小さいことをいうのではない。大きい、小さいというのは心のことで、体のことではない。>
一日を過ごす(一一〇)
毎旦、鶏鳴きて起き、香を焚き宴坐し、床に対して書を読み、時に随いて警省し、処に随ひて進取し、以つて日暮に至る。古人云はずや「善を為すこと最も楽し」と。誠なるかな此の言や。
<毎朝、鳥が鳴いて起床し、香を焚いて坐り、床の間に向かって書物を読み、その時々自分を反省し、どこででも何か人のためにやり、そして夕方になる。孔子が言っている。「善いことをするのは楽しいことだ」と。本当にその通りだ。>
お酒かお茶か(四〇)
酒を飲まんか、お茶を飲まんか。酒の味は甘く、茶の味は苦し。甘きものこれを飲めば覚えずして酔いに至る。心志混瞑し、以って気体を乱す。苦きものこれを喫めば数碗にしてすなわち止む。心志清涼にして、気体暢然たり。酒を飲まんか、茶を飲まんか。二者の間、選ばざるべからざるなり。
<酒を飲むか、お茶を飲むか。酒の味は甘く、茶の味は苦い。甘いものは、これを飲めばいつの間にか、酔ってしまう。そして、心は暗くなり、気力や体は乱れる。苦いものは、これを飲めば数杯で止めにする。心は、清々しく、気力や体はのびのびとする。酒を飲むか、お茶を飲むか。二つのどちらかにするかは、選ぶまでもないことだ。>
礼儀(一八七)
威儀は粛ならんと欲し、衣冠は整ならんと欲す。凡そ日間為す所の事は、皆極めて道理に循はんと欲す。
<礼儀正しい態度は、そのことに心をこめてやり、衣服やかぶるものはきちんと整っていることが必要だ。このように、日常に行おうとすることは、人として行うべき道に従ってほしいものだ。>
徳を養う(三三四)
徳は養わざるべからざるなり。識は練らざるべからざるなり。徳、養わざれば、則ち以って人の心を服するに足らず。識、練ざれば、則ち以って事の宣を量りてこれに応ずるに足らず。
<徳を身につけるには、修養しなければならない。知識(見識)を身につけるには、練り鍛えなければならない。徳を修養して身につけなければ、人の心を感服させることはできない。知識は練り鍛えて身につけていなければ、いろんなでき事に対して考察し判断して、これに応ずることができない。>
つとめて労働を(九四)
日用の間、柴を運び泉を汲み、務めて労働の事を為す。柔懦は是れに因りて嬌められ、宴安は是れに因りて戒められ、気体は是れに因りて健に、筋力は是れに因りて固ければ、則ち異時家に当り、物に接し、災いに遇い、変に応ずるも、固より為し難きことなし。此れぞ是れ山間の講学教養の微意なり。
<日々のくらしの中で、たき木を運んだり、水を汲んできたり、進んで労働をする。こうすることによって、弱気は直り、浮かれて遊びたい気持ちは戒められ、心は健やかになり、体は強くなって、いつか家の仕事を継いだり、何事かしなければならないとき、いろん困難に出会ってもやれないということはない。これこそ、私がこの山間で講義し学問しているねらいである。>
名声を捨てて(八四)
雪霜摯ばず、枝葉枯れざれば、則ち以って来歳発生の機を振るうなし。然らば則ち声華を刊落し、攻苦して淡を喫い、一意、道に向かうもの、豈に以って後来の造就を庶幾するに足らざらんや。
<厳しい雪や霜に覆われることがなくて、枝葉が枯れて落ちることがなければ、樹は次の年大きく繁るための芽をつけることもない。そうであるから、華やかな名声を捨てて苦心しながら勉学し、ただ自分の志す道に進むものは、将来自己を完成する期待が持てるというものだ>
自分を省みる(一八四)
賢人君子為らんと欲するか、愚不肖為らんと欲するか。反観内省、惟此の志の立ち得るとたち得ざるとにあるのみ。
<立派な人になろうとするか、愚かなつまらない人になろうとするか。それは、ただ自分をきびしく返りみる反観内省を、やっていこうとする志を持つことができるかどうかによって決まる。
苦しみを察する(三〇三)
人は能く多情にして、然る後以って鰥寡の孤独の苦しみを察すべく、以って生民安危の情を体すべく、以って四海を沢潤して大業を建つべし。
<人は情を深くして、寄るべのない人たちの苦しみを察して、そのことから人々の苦しみを思い、世の中をうるおいのあるものにする大きな仕事をしなければならない。>
苦しみを察する(三〇二)
人は乃ち多情を貴ぶ。いはゆる多情とは男女の私褻の謂にあらずして、貧賎艱難、人生の痛痒に、輒能く心を動かすの謂なり。
<人は、情が深く、感じやすいことが大事なことだ。それは、男女のひそかな感情のことではなく、貧しさやひどい災難、肉体的精神的苦しみにある人のことを、よく察する事ができることだ。>
自分のこととして(一一九)
いはゆる仁者は人を視ること猶お己のごとく、その窮みは、家国天下の事を挙げて、己の分内にあらざるなきなり。いはゆる不仁者は、纔かに軀殻を認め以つて己れと為し、而して親戚兄弟も、視ること猶お路人のごとし。況んや家国天下の事をや。
<仁のある人は、人のことを見ても自分のこととして見る。それは家や国や世の中のことも自分のこととして考える。仁のない人は、自分の小さな枠の中で自分のことだけを考え、親戚兄弟のことでさえ自分に関係ないことのように見る。まして、家や国や世の中のことになるとなおさらのことだ。>
誠実な人(八七)
身は妄に動かず、言は妄に発せざれば、敦厚の士と謂ふべし。
<身はむやみに動こうとしない、言葉はむやみに出さない。こういう人を篤実で心が厚い人というのだ。>
日常は我が道場(二五七)
我れ窃かに熟此の世界を観るに、乃ち吾が道場たり。而して其の間の順逆好醜、患憂難苦の、凡そ泣くべく笑うべく、恐るべく驚くべきものは、皆吾の心を盪滌し吾の性を練磨する所以のものにあらざるなきなり。則ち丈夫たるものは、心屈すべからず、気阻むべからず。必ず当に其の脊梁を強くし、出頭担当して、以って遠く到らんことを期すべし。
<私が静かに、自分の住んでいる世界のことを考えてみると、この世界は私の道場といえるものだ。順調に行っていることも、逆境に出会うことも、良いことも悪いことも、煩わしいことも苦しいこともここにはあり、それらによって、泣くこと笑うこと、恐れること驚くことなどが起こってくるが、それらはみんな私の心をきれいにし、私を練り鍛えてくれる。志あるものは、それらに屈することなく弱気になることなく、背筋をまっすぐにのばし、やる気をだして何事も自分で引き受け、そうして将来のいつか、自分の完成が期待できるのだ。>
悩みとともに(二九)
夫れ人、生あれば則ち形あり。形あれば則ち欲あり。欲あれば則ち憂いあり。
以って憂いを去らんと欲すれば、其の憂いいよいよ大なり。蚩々然として憂ひと俱に生き、憂ひと俱に死す。
<人は生きている。生きていれば、体がある。体があれば、欲がある。欲があれば、悩みがある。悩みをなくそうとすれば、その悩みはますます大きくなる。愚かなようだが、悩みとともに生き、悩みとともに死ぬのが人間である。>
怒りに克つ(七九)
怒りの克ち難きは、猶お烈火の撲滅し易からざるがごときなり。克ち得ること容易ならば、乃ち其の勇を見る。
<怒りの心に打ち克つことが難しいのは、烈しく燃えさかる火を消すのが難しいのと同じようなものだ。怒りの心に打ち克つことが難しいだけに、それのできる人は、勇気があるということだ。>
身の回りをきちんと(九六)
机に対すれば、則ち筆硯斉整し、食に向かえば則ち菜羹定位あり。臥起坐立し、手を挙げ歩を移す、瑣屑微末の間にも、粛然として敬せざるなきなり。此れぞ是れ当下切実、至近至易の学問なり。
<机に向かえば、筆や硯はきちんと整えて置き、食卓に向えば、副食物やお汁はきちんと決まった所に置く。日常の寝たり起きたり立ったり座ったり、手を上げたり、歩いたりする小さなわずかなことにも、気持ちを引き締め、大事にしていかなければならない。これこそ、今すぐに、やらなければならい、身近でだれでも取り組める自分をつくっていくための学問である。>
徳を養う(三三五)
徳は性に具わる、これを養いて後高し。識は徳に基づく、これを練りて後明らかなり。
<徳は生まれながらにして人に具わっているものであり、修養していくことによって高くなっていく。知識(見識)はその人の徳に基づいたものであり、これは練り鍛えることによって深くなっていく。>
高い山も一杯の土から(二八)
泰華の高きは一簣に基づき、紅梅の深きは、細流より成る。蓋し人の、学を為す、亦此くのごときものあるかな。妄りに自ら菲薄とし中途にして棄廃すべからざるなり。
<高い山である泰山や華山も、もっこ(土など運ぶ入れもの)いっぱいの土が積み重なってできているのであり、深い海である紅海も、細い川の流れが集まってできている。人が、学問をするというのも、ちょうどこのようなものである。だから、すぐに自分を卑下し、学問がこれくらいしかできないなどと途中で止めてしまってはいけない。>
学ぶことは山に登るようなもの(三六)
学を為すは、譬うれば猶山に登るがごとし。辛きを喫し苦しきを喫して、歩歩力を著け、而る後能く千仭の高きに至る。高きに至れば則ち限界自ら闊く、況味超然たり。
<学ぶということは、例えて言えば、ちょうど山に登るようなものだ。つらさを味わい、苦しさを味わい、一歩一歩力強く進んでいって、ようやくとても高いところに達することができる。高いところに達すれば、視界は自然に広く開け、今まで自分のいたところからは抜け出して周りを見ることができる。>
恥じよ(一四)
学ぶものは惟恥づるを要と為す。恥づれば則ち憤り、憤れば則ち通ず。吾人の通ぜざるゆえんのものは、只是れ党初恥ぢず憤らざるに由るなり。
<学ぶ者は、恥ずかしいと思うことが大事だ。恥ずかしいと思えば、これではなるものかと心を奮い起こし、心を奮い起こせば学んでいる内容が分かってくるのだ。私たちにいいかげんなところがあるのは、最初恥じることがなく、心を奮い立たせていないからだ>
体を通して理解する(九一)
学は自得せんことを要す。蓋し心中に自得すれば、則ちこれを言語に発するものは自ずから別なり。是の故に尋常に経を説けば、則ち善く聖賢の微意を発揮し、人をして興起する所あらしめ、而も人の善を誘い、人の過ちを規せば、藹然として亦猶お和気の、人を襲うがごとく、感悦心服すること、然るを期せずして然るものあらむ。
<学ぶということは、頭で理解することよりも体を通して理解し心で納得する事が大事なことである。そういう理解ができれば、それを言葉で説明することができるかどうかは、別のことである。だから、それのできた人が教えを説けば、すぐれた昔の人の奥深いものが教える人に表れ、人を奮い立たずにはおれなくし、人の善を引き出すことができる。また、人の間違いを正せば、おだやかな暖かい空気が流れ、そうしようと思わなくても、人を喜ばせ感心させるものが自然ににじみでてくるだろう。>
努力をやめない(一一)
我窃に夫の草木の微を観るに、其の初め芽を吐くより、抽んでて幹と偽り、枝となり葉となる。既にして天に參わり、既にして堰蓋。彼、其の此に至る所以のものは、蓋し亦一気の綿々として止まざる功なり。
<私が、木の成長をよく見ると、初めは芽を出し、そして幹となっていき、枝が伸び、葉が繁ってくる。やがて、天に交わるほど大きくなり、枝葉が笠のように繁ってくる。木が、こんなになるのには、ずっと休むことなく、努力しているからだ。>
気ままが怖い(三六三)
精神士気は只放鬆を怕る。放鬆散漫なれば、天下為すべき事のなし。
<志を持ってやっていくためには、気ままなことが心配だ。気ままで、集中心がなければ、この世の中でできることは何もない。>
雨が多ければ(一九五)
春来たり雨澤多きに過ぐれば、耕稼に害あり。生民艱食甚だ慮るべきなり。
<春が来て雨が多すぎれば、穀物の植え付けにも害がある。人々が食べ物に欠乏することにも心配するべきだ。>
志があれば(六一)
志一たび奮抜すれば、則ち万累皆脱してこの身の軽く且つ易きを覚ゆるなり。志一たび消蝕すれば、則ち百病尽く現れてこの身の煩わしく且つ悩ましきを覚ゆるなり。
<志がいったんはっきりとして、ふるい立ってくると、煩わしいことはみんななくなり、晴れやかになり、そして安らかな気持ちになる。志がいったんなくなっていくといろんな病気が出てきたり、煩わしいことが増え、いろんな悩みがでてくるものだ。>
人の心は(四二八)
人苟も此の説を以って、反観内省し、其の能く燃るゆえんのものを求めば、則ち戚戚焉として蓋し自ら禁遏すべからざるものあらん。是に於いてかこれを識りこれを明らかにし、これを存しこれを養へば、以って己を成すべく、以って物を成すべく、以って天地に對して、愧づる所なかるべし。
<人であるならこの孟子の説くことが、自分にどうして共感できるかを深く考えれてみれば、自分にもそういう心があることがわかる。この事を知り、明らかにし、これを自分の中で養っていけば、自分のすることを果たし、周りの物に対してすることを果たし、宇宙の中に生きている一人として恥じることは少しもない。>
人の心は(四二七)
孺子の井に入るを見ては、怵?惻隠し、嘑爾蹴爾の食を見ては、受けず、屑しとせず。是れ孟夫子の端的に指し出して、人に示すゆえんのものなり。
<幼い子どもが自分で気づかず井戸に落ちようとするのを見れば、誰でもハッと驚き憐みの心を起こし助けようとする。また、いくら鍛えている人でも叱りつけて与えれば受けつけないし、足げりして与えようとしても、その無礼さに乞食でさえ受け付けない。そういうことをいさぎよしとしない心が誰にでもあるのだ。こういうことが、人の心で、そのことは孟子がわかりやすく教えてくれていることである。>
人の心は(四二六)
心の、物たる、方円を以って言うべからず。臭味をもって説くべからず、大小高下を以って論ずべからず。
<心というものは、四角とか丸いとか形で言えるものではない。においとか味があるというものでもない。大きい小さいとか高い低いとかいうものでもない。>
仁義が身につくと(三五二)
一身を以って言へば、則ち安宅広居、心広体胖、坦坦蕩蕩、怨尤あることなし、真に無上の福なり。
<一人の人としては、見るからにおだやかでのびのびしており、心は大きく体は健やかで、小さなことにとらわれないでゆったりとしており、憾んだり人を悪く言ったりすることはない。人として、本当にこの上ない幸せなことだ。>
仁義が身につくと(三五一)
仁義の道、これを身に反りみれば、則ち心は其の正を得、身は其の脩を得て、復た悔ゆべく恥づべきの事あることなし。
<仁義の道、これが身につくと、心はそれによって正しくなり、身はそれによって修まる。それによって行動すれば、後悔したり恥ずかしい思いをすることなどない。>
仁義の道(三五〇)
是の故に道は仁義より至れるはなきなり。教えは仁義より尊きはなきなり。
<だから、人としての道は仁義が最高のものだ。昔からの教えの中で仁義ほど尊いものはない。>
仁義の道(三四九)
然らば則ち人の人たるゆえんのものは、果たして何くに在りや。他なし、此の心に仁義を具ふるの謂なり。
<それなら、「人が人である」と言えるのは、どういうことか。他でもない、その心に他人を思いやり共に生きようとする仁と人の正しい道を考える義が備わっているからである。>
仁義の道(三四八)
人たるゆえんのものは、徒に能く利に趨りて害を避くるの謂のみにあらざるなり。徒利に趨りて害を避くるは、則ち禽獣といえども尚おこれを能くす。
<「人が人である」と言えるのは、ただ自分の得のために行動し、害から身を守るというようなことではない。自分の損得のために行動し、身を守るのは、鳥や獣でもすることだ>
仁義の道(三四七)
試みに吾子に問ふ、抑人の人たるゆえんのものを知れるや。
<みなさんに問うが、人が「人である」と言える理由がわかるか。>
人の心は(四二五)
天地の性は、惟人を貴しと為す。而して人の道は、又心より大なるはなきなり。
<宇宙では人が一番尊い。その人が、人として生きる道は、心ほど大事で大きなものはない。>
精思力践(二〇)
古人言へるあり、曰く、「精思力践」と。是の故に思は精ならざるべからず。精ならざれば、則ち義理通らず。践は力めざるべからず。力めざれば、則ち造詣終に浅し。
<昔の人が言っている。「精思力践」と。考える(思)ことは深くしなければならない。それができなかったら、正しい筋道がわからない。実行していく(践)ことには、努力しなければならない。努力しなければ、何事も深まらない。>
苦労に耐えて(二六二)
一片の堅苦の心膓、百世の不磨の基業。
<苦労に耐えていく心こそ、永遠に残る仕事ができるもとである。>
自分をあざむかないで(一四一)
人は平生事に応じ物に接して、朝より暮に至る。紛紛栄栄として、日子を送り了わり、曽ち自己は是れ何等の人物、何等の心地なるかを知らず。
<人は、日常、出来ごとに応じ物に接しながら、朝から夕方までいつのまにか過ごしてしまう。あれこれとあくせくして、日々を送っており、自分について見つめることもなく、自分がどんな人間なのか、どんな心をしているのかさえ知らない。>
読書して疑う(二七)
書を読みて疑なきは、是れ書を読みて心を用ひざるの験なり。蓋し心を用ふること精なれば、則ち講習の間、心に礙あるを覚ゆ。心を用ふること粗なれば、則ち歯莽滅裂、復た事あるなし。
<書物を読んで疑問に思うところがないのは、読んでいても心を集中させていないからだ。だから、心を集中させて講習を受けていると、いろいろ考えることが出てくるだろう。心を集中させることがいいかげんだと、何事も粗雑でまとまりがなくなるのだ。>
質素な衣食こそ(二一〇)
粗糲の食、襤褸の衣、此れぞ是れ志士の本分、厭うべきにあらざるなり。
<粗末な食べ物と、粗末な着物、これこそ志を持つ人らしい姿である。嫌がってはならい。>
貧と富(二一五)
貧は人をして雅ならしめ、富は人をして俗ならしむ。
<質素は人を優雅に上品にし、富めることは人を卑俗に下品にする。>
西洋の長をとり短を補う(三一五)
国を治めるものは、綱常より重きはなく、倫理より先なるはなし。上は此れを以って君徳を輔け、下は此れを以って士風を励ます。而して夫の西洋の技術のごときは、彼の長をとり、我の短を補い、以って防禦の一端を備えれば可なり。
<国を治めるのには、人としてのあり方ほど重要なものはなく、人としての生き方より先にくるものはない。
これ、(綱常倫理)によって、人の上に立つ人は君子としての徳を養い、一般の人々は人としてのあり方を養う。
そして、西洋の技術というようなものは、その長所を取り入れ、われわれの短所を補い、その上で国の防御の一端にでもなればよいのだ。>
西洋の機械はすばらしいが(三一四)
今、西洋の説を為すものは、其の本を講ぜずして、其の末に従事す。則ち技術は精なりといえども、器械は巧みなりといえども、然れども倫理暗く元気衰えて、国能く存し身能く保つものは、未だこれあらざるなり。
<今、西洋の考えを説くものは、国のあり方の根本の所を問題にしないで、其の末端の所に取りつかれている。技術は大変精巧といっても、機械は巧妙にできているといっても、人の生き方はあいまいで、気力も衰えていて、国を存続させ、それをいつまでも保持させることはないであろう。>
華やかな世になると(二三一)
澆季の世に及ぶや、乃ち妖艶婀娜、以って其の色を衒い、耽溺迷惑して以って其の慾を恣にし、怨嫉妬害して、以って其の毒を発す。而して蠶織は識らず、桑麻は問わず、噂噂長舌し、職ら励階と為る。予窃かに天下古今の治乱興亡の由来を原ぬるに未だ嘗って此に胚胎せずんばあらざるなり。
<人情が薄く風俗の乱れた世の中になると、艶やかで美しく、派手なことがはびこり、その美しさをみせびらかすようになる。よくない事にふけり熱中して、心が迷って、欲望丸出しともなる。怨みやねたみや憎しみがいっぱいとなって、その害が出始める。
そして、蚕を飼って絹を織ったりして働くことは何も知らず、蚕の餌の桑や麻などの生産のための知識についても考えようともしない。多くの人が集まって長話し、それが禍のもととなる。私が、じっくりと天下や歴史の治乱興亡の原因を調べてみると、みんなこのようなところにある。>
魚を釣る(一一二)
小童を拉し、長竿を持ち、前渓に沿いて魚を釣る。殆ど亦世外閑適の一游なり。
<幼い子供を連れ、長い竿を持って、前谷で魚を釣る。煩わしい世間の外で味わう心静かな楽しみの一つである。>
時勢に流されない(二三)
身は時勢の外に超え、而して心は経綸の思いに苦しむ。
<我身を、世の中動きの外において、世の中はどのようにあればよいかに心をくだく。>
国で自給自足(二二七)
今夫れ自国の物を以って、自国の用を弁ず。初めは給を外に仰がずして、盈縮窮通し、皆図を為す。豈に亦自由自便の方ならずや。
<自分の国の物で自国に要る物をまかなう。初めに外国より供給を受けないで、余ったり、不足したり、行き詰まったり、切り抜けたりして、皆計画することができる。まさに自由で自在のやりかたではないか。>
人は奇を好む(三一六)
人情は常を忽せにし奇を好み、故きを厭い新しきを喜ぶ。国体士気靡然として潜かに冥冥の際に移る。知らず異日何等の世界と作るかを。予、常に中夜これを思い、長嘆に勝えず。
<人の気持ちは、日常あたりまえのことをいいかげんにして珍しいことを好み、古いことを嫌い新しいことを喜ぶ。国民性といったものは、草木が風になびくようになびいていき、ひそかにいつの間にか変わっていってる。将来どんな世の中になるというのか、私は分からない。私は、このことを終始思い、嘆かずにはいられない。>
家族を大事に(二五五)
凡そ人の人たる所以を論ずるは、則り孝と曰い、悌と曰う。此れ人生の何等の大節目ぞ。而るに吾人平生、骨肉同胞、少しく悖逆に遭えば、輙ち是非計較の機あり。テキ然として自省せざるべからざるなり。
<人が人であると言えるのは、親を大事にしたり、兄弟仲良くしたりするからである。これは人の生き方として、とても大事なことである。そうであるのに、私たちは常日頃、妻や子が少しでもよくないと思うようなことをすると、その度にいいか悪いかを自分で決めて、責めている。振り返って、反省せずにはおれない。>
独りを慎む(一三七)
人の身体は本病なし。病は則ち妄より生ずるものなり。而して妄の物たる、悠渺恍惚として、ほとんど識認し難れば、則ち其の功を用うるや、亦必ず巌且つ密ならざるべからざるなり。
<人の心には、もともと欠点などないのだ。欠点は、誤ったものの見方から起きてくる。自分についての誤った見方というのは、微妙なところがあって、はっきりと誤っていると知ることは難しい。だから、自分で努力していく場合、厳しく綿密に自分を見つめていかなければならない。>
志を立ててこそ(二六八)
凡そ士たるものは志を立つるを貴とぶ。志立ちて人品材略、規模の大小高下、皆これに従う。
<人として一人前の者は、志を立てることを大切にする。
志が立って初めて、人の才能や知恵の働き、人間的な器の大小高低など、みなこれによって決まってくる。>
学ぶものは横着をしない。(九三)
学ぶものは事を厭い労を辞すべからず。事を厭い労を辞し、清閑日を渡れば、則ち古人のいわゆる間を積みて懶を成し、懶を積みて散をなすもの。到底、終に是れを用うるなし。此くのごときの学は甚だ人を誤る。
<学ぶ者は、仕事をすることをいやがったり、働くことをめんどうがってはいけない。仕事をいやがり、働くことをめんどうがって、のんびりと日を過ごしていると、昔の人が言っているように、怠け始め、それが重なって何事もいいかげんになってしまう。こうなると、何のとりえもなく役に立つようなことは何もない。このような人の学問(勉強)は、人を間違った道に進ませる。>
自分を完成させる(二五二)
凡そ学ぶものは以って自己の心身を成就するのみ。人の好く看ると好く看ざるとには関せざるなり。かくのごとき志を立つる、此れを真実己の為の学と謂う。
<学ぶ者(塾生のみなさん)は、学ぶことによって自分の中にある力や才能を掘り出し磨いて、りっぱに完成させることがまず大事なことである。学んだことによって人がよく見てくれるかどうかなどは、関係ないことだ。このような志を立てて、めあてを持って学んでいくことが、これこそ自分のために学問をするということである。>
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更新日:2019年12月02日