但馬聖人・池田草庵

更新日:2019年11月29日

池田草庵という人

大正時代の青谿書院

大正時代の青谿書院

草庵は江戸時代の終わりごろ、文化10年(1813)7月23日に宿南の農家、池田孫左衛門の三男として生まれました。子供の頃の幼名は歌蔵といい、成長して禎蔵といいました。

文政8年、13歳で広谷村にある満福寺という大きな寺院で出家し、弘補(こうほ)と名のって仏の道を学びながら読み書きに励みました。幼少のころからもの覚えがよく、几帳面な性格だったといいます。草庵が17歳のとき、満福寺の不虚上人(ふきょしょうにん)は広谷村に滞在していた京都の儒学者、相馬九方(そうまきゅうほう)の講義を学ばせました。

そこで草庵は新しい学問に熱中し、自分の進むべき道は僧侶になるより儒学の道を学ぶことだと確信しました。天保元年(1831)に19歳で満福寺を出て上京し、京都の相馬塾に入門したのです。草庵は学びながら相馬塾で助教を務めました。そして名を緝(しゅう)、字(あざな)を子敬(しけい)としました。

京都で学ぶ

全国の主な私塾

全国の主な私塾

相馬九方は荻生徂徠(おぎゅうそらい)の流れをうけた古文辞(こぶんじ)学派の儒学者です。草庵は相馬塾で雑用をしながら勉学に励み、一年足らずで塾頭になりました。このころ春日潜庵(かすがせんあん)と知り合い、23歳の夏には相馬塾を去って京都梅宮に移転しました。翌年の天保7年(1836)には松尾神社の神官の草庵を借りて読書思惟に没頭したのです。そして草庵の号を使うようになりました。松尾山にあった6年間は「終日座して読む古人の書」といって、専心読書に励みました。

28歳になった天保11年正月に帰国したとき、豊岡藩の家老舟木子新の招きで20日ほど豊岡に滞在し、藩士たちに講義をしました。この年の8月に京都一条に塾を開きましたが、心境を「堅坐(けんざ)六年松尾山、偶然今日人間(じんかん)に向う」と書に記しています。

青谿書院で学ぶ

31歳になった草庵は、天保14年(1843)に、郷里からの懇願によって八鹿に帰りました。八鹿村西村庄兵衛(しょうべい・号は潜堂・せんどう)が使っていた一軒の私塾をかりうけて、池田盛之助、安積理一郎、北垣晋太郎(後の北垣国道)など15人の門人をえて、立誠舎という塾を開きました。

しかし弘化4年(1847)6月8日、35歳の時には宿南に青谿書院(せいけいしょいん)を建てて移ります。ここで、終生自分の学問と修養につとめました。そして国屋松軒(くにやしょうけん)の妹の久子と結婚しました。安政4年には45歳で「青谿書院記」を著しました。翌年からは「肄業餘縞」(いぎょうよこう)を著し始めました。慶応元年(1865)、53歳で豊岡藩や福知山藩にたびたび出講するようになりました。

草庵の学問は朱子学と陽明学を融合したもので、明治11年9月24日に66歳で亡くなるまで、全国30か国から集まってきた673人の人材を育成しました。豊岡藩の17人や多度津藩の21人をはじめ、出石藩・福知山藩・平戸藩・宇都宮藩などから多数の武士が派遣されて学びました。また、但馬の多くの有識者を育てました。

青谿書院の母屋は宿舎と講堂を兼ねた木造茅葺の建物です。二階建の建物に平屋瓦葺建物が増築されています。二階を生徒の宿舎にして、一階の六畳間が草庵の居室、隣の二つの八畳間が客間と講堂を兼ねています。昭和45年に県指定文化財となりました。

草庵先生の師と友人

草案先生と親交のあった学者一覧

草案先生と親交のあった学者一覧

池田草庵は30歳のとき吉村秋陽(よしむらしゅうよう)を知り、はじめて会った時から秋陽の人柄に深く傾倒しました。秋陽は佐藤一斎の有名な高弟であり広島藩の家老です。そして秋陽の紹介で、生涯を通じた学友となった多度津藩家老の林良斎(はやしりょうさい)を知ります。良斎は大塩平八郎の教えをうけた陽明学者です。

弘化2年(1845)、33歳の時に草庵は讃岐の多度津に林良斎を訪門し、さらに伊予の小松に伊予聖人とよばれた近藤篤山(こんどうあつざん)を訪ねます。そして安芸広島の吉村秋陽と意見を交わし、さらに備中松山に山田方谷(やまだほうこく)を訪問し、京都の春日潜庵(かすがせんあん、のちの奈良県知事)にも会って宿南に帰りました。

嘉永2年(1849)に草庵は、最愛の門弟である甥の池田盛之助を林良斎の弘浜(ひろはま)書院に学ばせました。草庵のもとには林良斎の養子の林求馬や、相馬九方の娘婿にあたる土屋鳳州(つちやほうしゅう)、豊岡藩主京極高厚(きょうごくたかあつ)の子の京極武が入門します。

嘉永4年に池田草庵は、江戸の幕府儒官である佐藤一斎を訪ねて講義を受けました。このため池田草庵は佐藤一斎の門人とも言われています。一斎の門人には安積艮斎(あさかこんさい)・渡辺華山・佐久間象山などの著名人がいますが、大橋訥庵(おおはしとつあん)と親交を深めました。

また京都の春日潜庵と丹波の小島省斎(こじましょうさい)は親密な友人で、それぞれ89通と70通の書簡が知られています。

池田草庵の門下生には、東京帝国大学総長や文部大臣を務めた浜尾新(はまおあらた)、文部大臣を務めた大久保譲、第百国立銀行頭取となった原六郎(はらろくろう)、曹洞宗の官長となった日置黙仙(ひおきもくせん)、京都府知事や北海道庁長官を務めた北垣国道など多くの人物がいます。

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