行政家・北垣国道さん

更新日:2019年11月22日

幕末の運動家・北垣国道さん

北垣国道の肖像

北垣国道の肖像

ヒダリマキガヤがそびえる地は、北垣国道(きたがきくにみち・1836~1916)さんの生家です。北垣さんは天保7年(1836)に能座村に生まれました。北垣家は庄屋を務める旧家でした。幼名を捨蔵といい、成人後は晋太郎といいました。天保12年7歳の時から池田草庵先生の元で学び、成人して青谿書院の塾頭になりました。しかし27歳で青谿書院を離れ、文久3年10月、沢宣嘉(さわのぶよし)・平野国臣(ひらのくにおみ)らが率いる生野義挙(一般には「生野の変」)に参加しました。

しかし生野義挙は破陣し、鳥取から長州に逃れました。その後は、鳥取藩に任官しました。柴捨蔵(しばすてぞう)や八木竜蔵と名乗って、倒幕運動に身を投じました。慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いの後には、山陰道鎮撫使西園寺公望(さいおんじきみもち)の随行を務め、1月15日には長州藩士柴捨蔵として但馬に入りました。また8月には新政府軍として北越戦争に従軍して、奮戦しました。

北垣国道さんと琵琶湖疏水

北垣さんは、明治12年に高知県令となり、翌年には徳島県令を兼任しました。そして明治14年から24年まで京都府知事を務めました。京都府知事として明治23年には琵琶湖疏水を完成させ、京都の近代化に大きく貢献しました。

琵琶湖疎水に立つ北垣国通の銅像

     琵琶湖疏水に建つ国道さんの像

琵琶湖疎水

                      琵琶湖疏水

琵琶湖疏を建設するための測量は、豊富な経験をもつ八鹿村出身の島田道生(しまだどうせい・1849~1925)を高知県から呼び寄せて行いました。疏水の設計は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業した田辺朔郎(たなべさくろう・1861~1944)が進めました。琵琶湖疏水は4年8か月の大工事となりました。水上交通・水力発電・上水道として京都に多くの恩恵を与えました。

男爵・北垣国道さんのヒダリマキガヤ

故郷の能座地区

故郷の能座地区

明治25年7月19日には北海道庁長官になり、明治29年に男爵を授けられました。そして明治32年から明治45年まで貴族院議員を務め、さらに明治45年には枢密院顧問官に任命されました。大正5年1月、81歳にして京都で生涯を終えました。

ヒダリマキガヤは郷土偉人をたたえるシンボルとして、建屋の能座村で今もしずかに歴史の歩みを見つつづけています。

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