まちの文化財(144) 田和城と藤堂高虎

更新日:2019年11月14日

大屋川に張り出した田和城

大屋川に張り出した田和城

田和城の麓にある2基の石碑

田和城の麓にある2基の石碑

 

大屋市場から夏梅に入る県道に面して、山裾に城山公園という看板があります。大屋川に張り出したこの丘が田和城跡です。田和城は、藤堂高虎が家臣の武将居相孫作(いあいまごさく)に与え、その後、加保村の武将栃尾祐善(とちおゆうぜん・源左衛門)に譲ったと伝えられています。

田和城は全長120メートル、比高差34メートルの丘の上にある小規模な城郭です。10か所の小さな曲輪や土塁、堀切があります。藤堂高虎が所有した城郭といわれており、大屋における藤堂高虎の足跡の一つとなっています。

天正8年から天正9年にかけて毛利輝元に与した小代一揆の勢力は、横行や天滝を越えて西北方向(鳥取県・小代方向)から攻めてきました。織田信長の家臣羽柴秀長に属する藤堂高虎は、田和城から東側(播磨・南但馬)を制圧しており、田和城と加保城を拠点として、西側から攻める敵と戦いました。

現在、県道に面して「南無妙法蓮華経」と刻んだ高さ2メートルと高さ80センチメートルの石碑があります。小さい石碑には「一千部成就、明和四亥歳九月立之、願主、研心院成清日珠」の文字が続いています。

この石碑は、明和4年(1767)加保の法華寺の信者である研心院(けんしんいん)が、お題目を石に彫って建立したものです。田和城は、藤堂高虎・居相孫作をへて栃尾祐善の持ち城となりました。おそらく研心院は、栃尾祐善の縁者であり、田和城の麓に供養塔を建てたのだと考えています。

藤堂高虎は出石城主羽柴秀長の家臣として、天正9年(1581)大屋で3300石に加増され、領地を治めました。この時、高虎は田和城を居相孫作に与えて大屋を治めたのでしょう。その後、天正13年、藤堂高虎は羽柴秀長から1万石の和歌山県粉河城主を命じられ、大屋から粉河に移りました。

居相孫作の子孫は藤堂高虎に従軍し、伊勢国津藩で150石どりの武将となり、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では「上野城御留守居、同所御屋敷在番」を務めています。藤堂高虎にとって大屋は、大名へと出世する基礎を作った重要な場所になります。

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