まちの文化財(134) 徳川将軍の奥医師長島

更新日:2022年08月29日

官医長島的庵の文字

官医長島的庵の文字

長島的庵の一族の墓所

長島的庵の一族の墓所

 

江戸幕府が、大名や旗本の系図をまとめた『寛政重修諸家譜』という書物があります。現在では、江戸時代の武家社会を研究するための基本文献となっています。その中に、江戸幕府の300俵10人扶持の旗本として、長島的庵(てきあん・秀世)の記録があります。仕事は徳川幕府に仕える医師です。

的庵の祖父の長島徳元は、祐伯と瑞得という2人の子を連れて九鹿村から江戸に出て、大名を診察する医師となりました。長島瑞得は、江戸幕府の典薬頭である半井家(なからいけ)で医学を学び、延宝8年(1680)に半井家の推挙で、将軍綱吉によって旗本に採用され奥医師になりました。奥医師は16名で、江戸城内で将軍等の医療を担当します。徳元と祐伯は、大名酒井家の知遇を得て現在の横浜市金沢に住み、後に泥亀新田を開発しました。

瑞得には丈庵と的庵の2人の子どもがいました。的庵は父のふるさとの養父郡九鹿村で、親戚にあたる九鹿村の医師湯浅元友の養子として育てられ医師となりました。湯浅元友は儒学者でもありました。

しかし貞享元年(1684)の38歳の時、的庵は江戸の旗本長島家に呼び戻され、旗本を継ぎました。元禄13年(1700)54歳で第5代将軍徳川綱吉に拝謁しました。

九鹿村の龍蔵寺にある墓地には、「毅節(きせつ)先生之墓」や「叔慎嬬人之墓」などと刻んだ7基の墓石があります。そこには「孝子、官医(かんい)的庵長島氏、子文建」「宝永二、乙酉年建」の文字が刻まれています。この墓地は、長島的庵を育てた湯浅元友(毅節先生)とその一族の墓所です。官医となった長島的庵が、宝永2年(1705)に建立したものです。

松尾芭蕉の門人、森川許六が編纂した『風俗文選』には、「世に薮医者と号するは、もとは名医の称にして、今いう下手の上にあらず。なにがしの良医、但馬国養父というところに隠れて治療をほどこし、死を起こし、生き回(かえ)すものすくなからず」と書いています。

『風俗文選』では、「やぶ医者」はもともと但馬養父にいる名医のことである。養父医者を語っていい加減な治療する医者が増えたことから、名医の称号が地に落ちてヘタな医者を「薮医者」と呼ぶようになった。松尾芭蕉の門人という称号も、同じようにならなければよいが、と心配しています。

『風俗文選』が書かれた時代に、養父市の九鹿には、湯浅元友、湯浅(長島)的庵などの本物の名医が活躍しています。

(注)長島氏は、墓石には長島、系図には長嶋とあります。長島の文字に統一しています。

この記事に関するお問い合わせ先

歴史文化財課
〒667-1105
養父市関宮613-6
電話番号:079-661-9042
ファックス番号:079-667-2277

フォームからお問い合わせをする