円山川の下流から見た坂本城

円山川の下流から見た坂本城

円山川の上流から見た小田と伊佐

円山川の上流から見た小田と伊佐

 

天正5年10月23日、羽柴秀吉は、黒田官兵衛(かんべえ)の居城であった姫路城を譲り受け、姫路城に入りました。『信長公記(しんちょうこうき)』によると、天正5年11月10日頃、播磨を制圧した羽柴秀吉は、姫路から但馬攻めに向かいます。そして竹田城を攻め落とし、弟の羽柴秀長を城代として入れました。さらに11月27日、黒田官兵衛と竹中半兵衛らと播磨上月城攻めに向い、上月城(こうづきじょう)を落とし、山中鹿之助を城代として入れました。

但馬の竹田城と播磨の上月城を攻めおとすための合戦は、秀吉による一連の軍事行動です。羽柴秀長と黒田官兵衛や竹中半兵衛の軍勢に分けて、姫路城からみて北部と西部にある毛利方の拠点を連携して制圧しました。 宿南に伝わる『掃部狼婦(かもんろうふ)物語』には、この時期の合戦伝承が記録されています。

『掃部狼婦物語』は、江戸時代後期に成立した軍記物とよばれる歴史の読み物です。 これによると、羽柴秀長の軍勢2,000余騎は、朝来を通過し、円山川の上流から八鹿町上小田付近まで攻めてきました。それを但馬の軍勢が迎え撃ちました。これが伝承「小田野の合戦」です。

但馬の軍勢は、円山川の下流にあたる八鹿町下小田付近(北側)に、宿南城主宿南輝直・朝倉城主朝倉大炊(おおい)・宮垣三方城主三方左馬之助(みかたさばのすけ)・国分寺城主大坪亦四郎・上郷城主赤木丹後など500余騎が並びました。円山川の東岸にあたる伊佐には浅間城主佐々木近江守・坂本城主橋本兵庫など200余騎が出陣しました。羽柴勢は北側と東側の二手に分かれて突進し、下小田と伊佐に布陣する但馬勢を一気に攻めて打ち負かしました。宿南付近が秀吉・秀長の最前線となりました。

歴史的には天正5年11月、羽柴勢が竹田城だけでなく、軽部城・稲津城・宮垣三方城・加保城・八木城・朝倉城・宿南城などを制圧し、円山川流域の朝来市・養父市を支配したと推定されています。そして生野銀山・明延銅山は織田信長が管理する鉱山となりました。

天正5年12月10日、安土城で織田信長は、羽柴秀吉に対して、播磨と但馬城攻めを達成した褒美として乙御前(おとごぜ)の茶釜を与えることを決めました。しかし、この但馬国と播磨国を取り合う織田と毛利の攻防戦は天正8年5月まで続きました。

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