まちの文化財(111) 天正5年小田野の合戦

更新日:2019年11月14日

円山川の下流から見た坂本城

円山川の下流から見た坂本城

円山川の上流から見た小田と伊佐

円山川の上流から見た小田と伊佐

 

天正5年10月、羽柴秀吉は、黒田官兵衛(かんべい)の居城であった姫路城を譲り受け、姫路城に入りました。『信長公記(しんちょうこうき)』によると、天正5年11月10日頃、播磨を制圧した羽柴秀吉は、姫路から但馬攻めに向かいます。そして竹田城を攻め落とし、弟の羽柴秀長を城主として入れました。さらに11月27日、播磨上月城攻めに向い、黒田官兵衛と竹中半兵衛の活躍で上月城(こうづきじょう)を落とし、尼子勝久・山中鹿之助を入れました。

但馬の竹田城と播磨の上月城を攻めおとすための合戦は、一連の軍事行動です。黒田官兵衛や竹中半兵衛が但馬竹田城攻めに参戦した記録は残っていませんが、姫路城からみて北・西にある毛利方の拠点を連携して制圧しました。 宿南に伝わる『掃部狼婦(かもんろうふ)物語』には、この時期の合戦伝承が記録されています。

『掃部狼婦物語』は、江戸時代後期に成立した軍記物とよばれる歴史の読み物です。 これによると、羽柴秀長の軍勢2,000余騎は、朝来を通過し、円山川の上流から八鹿町上小田付近まで攻めてきました。それを但馬の軍勢が迎え撃ちました。これが伝承「小田野の合戦」です。

但馬の軍勢は、円山川の下流にあたる八鹿町下小田付近(北側)に、宿南城主宿南輝直・朝倉城主朝倉大炊(おおい)・宮垣三方城主三方左馬之助(みかたさばのすけ)・国分寺城主大坪亦四郎・上郷城主赤木丹後など500余騎が並びました。円山川の東岸にあたる伊佐には浅間城主佐々木近江守・坂本城主橋本兵庫など200余騎が出陣しました。羽柴勢は北側と東側の二手に分かれて突進し、下小田と伊佐に布陣する但馬勢を一気に攻めて打ち負かしました。

歴史的には天正5年11月、羽柴勢が竹田城だけでなく、軽部城・稲津城・宮垣三方城・加保城・八木城・朝倉城・宿南城などを制圧し、円山川流域の朝来市・養父市を支配したと推定されています。そして生野銀山・明延銅山は織田信長が管理する鉱山となりました。

天正5年12月10日、安土城で織田信長は、羽柴秀吉に対して、播磨と但馬の城攻めを達成した褒美として乙御前(おとごぜ)の茶釜を与えることを決めました。この成功の蔭には、黒田官兵衛と竹中半兵衛による軍事的、あるいは戦略的な活躍があったとみられます。

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