まちの文化財(108) 生野義挙

更新日:2019年11月15日

北垣家の墓所

北垣家の墓所

平野国臣の顕彰碑

平野国臣の顕彰碑

 

文久3年(1863)10月12日午前2時、江戸幕府を倒そうとする長州藩などの浪士たちが、生野代官所を占拠しました。総師は沢宣嘉(さわのぶよし)、総督は平野国臣と南八郎(本名は河上弥市、長州藩出身)です。 池田草庵の門人である北垣晋太郎(能座村、後に北垣国道と改名)、進藤俊三郎(佐中村、後に原六郎と改名)、西村哲二郎(八鹿村)、元出石藩士の多田弥太郎も参加しました。

沢宣嘉は朝来市と養父市から農兵を招集し、倒幕派の部隊としました。生野代官所に2千人の農民が集結しました。八鹿村の西村荘兵衛・西村五兵衛・西村重右衛門は、農兵組の隊長となって支援しました。 この事件を但馬地方では生野義挙(いくのぎきょ)、日本史では「生野の変」と呼んでいます。

生野代官所から知らせをうけた出石藩・豊岡藩・姫路藩などは、生野代官所の救援に出陣しました。13日午後10時、これに驚いた沢宣嘉は、解散を決定して撤退します。 14日午後4時半、出石藩を迎え撃つために出陣していた南八郎など元長州藩奇兵隊の13名は、朝来市山口村の山口護国神社の場所で、自刃(じじん)しました。現地には顕彰碑が建てられています。

14日夜、北垣晋太郎は能座村に帰り、父親北垣康平の墓前で切腹を決意しました。しかし母親の北垣利喜に諭され、氷ノ山をこえて鳥取を経由して長州へ逃げました。 そして倒幕運動を続けました。

15日午前11時、平野国臣は上網場にあった旅館京屋で、豊岡藩士に捕らえられました。後に京都の六角の獄で処刑されます。 平野国臣が捕らえられた京屋跡には、平野国臣の辞世の句を彫った顕彰碑があります。「見よや人、嵐の庭のもみじ葉は、いずれ一葉も、散らずやはある」です。場所は上網場公民館の付近です。

尊皇攘夷(そんのうじょうい)や倒幕運動と結びついた大事件が生野義挙です。平成25年は150周年にあたります。

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