まちの文化財(99) 男爵、北垣国道

更新日:2019年11月15日

北垣国道の生家跡、中央にヒダリマキガヤ

北垣国道の生家跡、中央にヒダリマキガヤ

男爵となった北垣国道

男爵となった北垣国道

 

能座区には、国指定文化財「建屋のヒダリマキガヤ」があります。ここは、男爵となった北垣国道の生家の場所、生誕地になります。

文久3年(1863)10月、北垣国道・平野国臣・南八郎(本名は河上弥一・長州藩奇兵隊隊長)たちが生野代官所を占領する生野の変(別名・生野義挙)を企てました。しかし倒幕運動は失敗し、南八郎は切腹しました。

但馬から長州まで、総帥となる沢宣嘉を山口県の三田尻まで迎えに行ったのは、北垣国道と平野国臣の二人でした。そこに南八郎など長州藩の武士も加わりました。 北垣は、生野の変を計画した中心人物でした。

このため北垣国道は、実家のある能座村に逃げて帰って、北垣家の墓前で切腹しようとしました。しかし母親に諭され、氷ノ山を越えて、鳥取藩から長州藩へと逃れました。平成25年は、生野の変から150年目にあたります。北垣国道は、当時27歳でした。

北垣国道は、その後も明治維新で活躍し、明治14年、第3代京都府知事に就任しました。伊藤博文や松方正義が、遷都によって衰退した京都を復興するため、北垣知事を抜擢したといわれています。

北垣知事は、京都に琵琶湖疎水を作り、この水で日本最初の水力発電所を作り、その電気で日本最初の市電を走らせました。工業化によって京都の復興と近代化を推進しました。

北垣国道の父、北垣康平は、能座村の庄屋を務めた人です。北垣家の菩提寺は能座村の円通寺です。北垣国道のお墓は京都市にありますが、円通寺本堂には男爵北垣国道の写真が掲げられています。円通寺も北垣国道の菩提寺なのです。

北垣国道が青谿書院を飛び出し、生野の変に参画して150年目になります。若き日の志を貫いて男爵となり、北海道庁長官として北海道の鉄道や港湾の整備を推進し、近体化を進めました。明治時代の日本を代表する行政官になりました。

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