まちの文化財(93) 中瀬金山と佐渡金山

更新日:2019年11月15日

関宮小学校の後ろの山が中瀬金山

関宮小学校の後ろの山が中瀬金山

中瀬集落の高台にある陣屋跡

中瀬集落の高台にある陣屋跡

 

中瀬金山は、天正元年(1573)、大日寺の下を流れる八木川で砂金が発見されたことによって、鉱山が始まりました。 そして豊臣秀吉の代官として、八木城主別所吉治が管理ました。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が管理する金山の運上金(税金の一種)をかいた記録があります。佐渡は799両で全国第2位、中瀬を中心とする但馬は127両で全国第6位、当時は越後が第1位となっています

その2年後の慶長5年、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利し、但馬の鉱山は徳川家康の領地となりました。 徳川家康は、但馬国生野奉行に間宮新左衛門を任命しました。間宮は、中瀬金山の開発にも力を入れ、橋本嘉右衛門など2名の下奉行を中瀬に派遣します。そして役屋敷(陣屋)を建設し、高柳から八木・関宮・出合などの4千石の領地を金山開発の費用として下奉行に預けました。

この時の陣屋の跡が、中瀬集落北側にある台地です。金昌寺の東側にある80メートル四方ほどの平坦な畑です。古文書によると陣屋の規模は、桁行10間(約20メートル)、梁間4間(約8メートル)になっています。

記録によると、慶長14年(1609)、佐渡奉行が金山開発に不慣れであることから、生野奉行は、中瀬金山の橋本をはじめ、その配下の鉱山技師である下草孫右衛門、白岩九右衛門、井相九助の3人を1年間、佐渡に派遣し、佐渡の金山開発を支援しました。彼らは、中瀬金山で成功した水抜き技術を佐渡金山で行いました。 また元和3年(1617)には、佐渡金山の味方但馬という有名な鉱山技師が中瀬にきて、山に水を流して金を探す流山という方法で金を探しています。

天下を治める徳川家康は、中瀬金山の開発に力を入れ、但馬・佐渡・石見の技術交流によって鉱山開発を進めました。近畿地方でも最大の金山が、中瀬金山なのです。

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