まちの文化財(31) 尾崎天王山城跡
西から見た尾崎の天王山
山城の主郭石垣
関宮地域の尾崎には、天王山城(別名:横尾城)と尼ケ城という二つの山城があります。天王山城の場所は、尾崎集落と和多田集落の間にある国道9号線に張り出した小山です。主な曲輪(くるわ)は江戸時代の城郭では本丸と呼ばれる主郭(しゅかく:中世城郭の用語)だけで、主郭の規模は南北50メートル、東西16メートルあります。
主郭には、氷ノ山側にあたる西側だけに高さ1メートルの石垣を築いています。長さ50センチメートル、幅30センチメートルほどの石材を、横方向に目地を通して3段に積みます。こうした大きな石材を利用する城郭石垣は、八本城や竹田城などにしかありません。石材の裏側が薄くて裏込め石も利用していないという欠点もありますが、竹田城よりも15年ほど古いもので、織田信長時代に築かれた城郭石垣として大変重要なものです。
和多田方向にあたる東側には、幅2メートルほどの細い帯曲輪(おびくるわ)があります。城郭の北側と南側をつなぐもので、主郭を通らずに城郭の南側から北側に武将を移動させるためのバイパス機能をもっています。
尼ケ城(あまがじょう)は、天王山城の南西に1キロメートル離れた八本川の対岸にあります。大きな主郭があるだけの単純な縄張りですが、主郭を守るように半円形の帯曲輪が造られています。石垣はありませんが、縄張りの共通点からみて、天王山城と同時期にセットで利用されたと考えられます。
天正8年(1580)4月、但馬勢は羽柴秀長によって攻め城ぼされました。八木城主の八木豊信も羽柴秀吉の家臣となって鳥取城攻めに従軍しました。天正9年10月に鳥取城が落城するまで、氷ノ山山系は鳥取城防衛網の最前線でした。小代勢など鳥取城支援軍は、横行から大屋に攻め込んで、大屋にいた藤堂高虎を襲撃しました。
天王山城と尼ケ城は、鳥取城が落城するまでの期間、但馬側を守る羽柴勢の防衛ライン形成していた砦の一つではないか。このため、但馬では珍しい縄張りをもった山城が、近接して二つも作られたのではないかと注目しています。
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更新日:2019年11月18日