まちの文化財(162) 村岡藩と山名の殿様

更新日:2019年11月15日

山名豊貴が訪れた八幡神社

山名豊貴が訪れた八幡神社

村岡陣屋があった御殿山

村岡陣屋があった御殿山

 

養父市の北西部にある熊次(くまつぎ)地区は村岡藩の領地でした。

村岡藩は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで山名豊国(とよくに)が徳川家康に味方し、翌年に但馬国七味郡(ひつみぐん)の一郡にあたる6700石の領地を与えられて始まりました。領地は現在の香美町村岡区・香美町小代区・養父市熊次地区になります。最初は養父郡との郡境に近い村岡区福岡村に陣屋が置かれました。村岡の山名家は江戸幕府の旗本であり、慶応4年(1868)に大名に昇格しました。

養父市に残る村岡藩の遺跡を紹介します。慶長11年、村岡藩は領内に26か所の辻堂を整備しました。福定から登る氷ノ山登山道沿いにある地蔵堂は、この時に創建されたといいます。そして寛永9年(1642)、旗本山名家第3代の山名矩豊(のりとよ)は、陣屋を福岡村から黒野村に移転し、その場所を村岡町と名付けました。

明和3年(1766)6月、旗本第7代の山名豊貴(改名義徳・よしのり)は、江戸から初めて村岡に入りました。山名豊貴は筑後国柳川藩の立花家から山名家に養子に入った人物です。9月24日に山名家の領地を巡回し、葛畑から別宮に入って八幡神社に参拝しました。領内にある山名家の崇敬社の9社の一つが別宮の八幡神社だったからです。

そして別宮から外野を通って梨ヶ原に入り、西谷友右衛門宅で昼食をとりました。豊貴は氷ノ山の紅葉を見て「氷の山、風吹く音のきこゆるは、雪降る嵐、今や来るらん」の歌を詠みました。江戸に住む殿様が帰国して初めてみる氷ノ山の風景となりました。この時代の氷ノ山は、鳥取藩舂米村、村岡藩福定村、出石藩横行村の境界となっていました。

慶応4年(1868)旗本第11代の山名義済(よしずみ)の時、領地は同じままで石高の変更が認められて1万1000石の大名になりました。しかし明治維新によって藩や大名は廃止されました。村岡陣屋の跡地は昭和24年から県立村岡高等学校の敷地として使われた後、現在は御殿山公園となっています。この中には現在も、陣屋の鬼門除けとして置かれた稲荷神社や山名家の墓所があります。

村岡山名家の祖となった山名豊国は、応仁の乱で活躍した山名宗全の子孫であり、天正6年まで鳥取城主として因幡国を治めました。山名家は山名一族の総領家となり、江戸時代を通して但馬国七味郡を治めました。

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