近代化産業遺産 明延一円電車
近代化産業遺産 明延一円電車
明延(あけのべ)鉱山は、天平勝宝4年(西暦752年)に開眼した奈良の東大寺大仏を鋳造するための銅を献上したという伝承がある古い鉱山です(江戸時代『明延銅山由緒』)。明治5年、明延・神子畑・中瀬などの但馬の鉱山は、生野鉱山を本部とする明治政府の直営鉱山となりました。工部省などの管轄をへて、多くの官営鉱山が民間経営となる中で明治22年、宮内省御料局の所管となりました。官営として最後まで残った生野鉱山群と佐渡鉱山群も明治29年、三菱合資会社に経営を移しました。
明治42年、明延鉱山で錫の鉱脈が発見されたことから、三菱による近代鉱山としての開発が始まりました。その規模は日本一にとどまらず、アジア地域を代表する錫鉱山として大きく発展しました。昭和62年閉山時においても、なお日本の国内で産出する錫の90%を産出していました。明延の地下約1,000mまで掘り下げられており、現在も日本一の埋蔵量といわれる良質の錫鉱脈があります。
明延鉱山で採掘した鉱石は、神子畑選鉱場(みこばたせんこうじょう)に輸送しました。明延鉱山では鉱石を堀り、神子畑では鉱石を細かく砕いて銅・銀・錫などの金属を分離しました。明延鉱山と神子畑選鉱場は約6kmも離れていますが、明神電車で結ばれた一つの鉱山でした。
昭和4年、全長3,937mの明神隧道(第3隧道)というトンネルが完成し、明延の出合地区と神子畑がつながりました。 電車による鉱石の鉄道輸送が始まりました。但馬では、平成15年完成の国道482号線の蘇武トンネルが全長3,693m、平成23年完成の北近畿豊岡自動車道路の八鹿トンネルは全長2,990mです。今から80年以上も昔に作られた明神電車のトンネルが、現在でも但馬地域で最も長いトンネルとなっています。
昭和20年になると鉱石だけではなく、人を運ぶ客車の運行が始まりました。昭和27年に一円電車切符の発行が始まり、昭和60年までの33年間、料金1円で人々を運びました。これが一円電車です。片道30分、客車2両で定員は約40人です。料金が1円の一円電車は、明延鉱山のシンボルとして全国的に有名になりました、しかし、昭和60年11月、明延鉱山の合理化のため、一円電車の運行は終了しました。
平成22年10月、明延振興館前に長さ70mの一円電車の線路「一円電車明延線」が完成し、一円電車が復活しました。蓄電池機関車で客車くろがね号を牽引しています。この客車くろがね号は、明延鉱山で最後まで使われた本物の一円電車です。
明神軌道と明神電車
明治29年から三菱合資会社は、生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山経営を開始しました。明延鉱山では、明治42年(1909)に錫鉱脈が発見され、日本一の錫鉱山へと開発されていきました。
神子畑鉱山では銀を産出しなくなり、明延は錫鉱石の採掘、神子畑は選鉱場として分業体制をとりました。このため明延から神子畑に鉱石を運搬する手段が必要となりました。
明治43年には牛車などを利用して鉱石を運搬しました。しかし、けわしい山道でした。このため大正元年、全長5,750mの架空策動を建設して輸送しました。その後、昭和4年に明神隧道3,937mが完成し、電車で鉱石を運搬しました。当初の軌間(軌道の幅)は500mmです。その後、昭和16年に762mmに拡張しました。このルートが明神軌道です。
これによって神子畑は、明延鉱山神子畑選鉱場として繁栄しました。
時期 | 明延鉱山の事跡 |
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明治42年 大正元年12月 大正3年9月 大正7年 昭和4年 昭和13年 昭和15年 昭和16年 昭和20年 昭和24年 昭和27年 昭和30年11月 昭和32年 昭和35年 昭和60年12月 昭和62年3月 |
明延鉱山で錫鉱脈を発見し、採掘を始める。 鉱石を牛車や馬車で山道を神子畑に運ぶ 明延・神子畑間架空索道5.75kmが完成する。 神子畑の採掘を休止する。 明延の採掘に集中する。 明神隧道の掘削を始めるが中断する。 明神隧道が完成する。軌間500mm。 明神電車に4トン電車と1トン鉱車を配備。 神子畑選鉱場を1,396平方メートル拡張。 神子畑選鉱場を1,419平方メートル拡張。 明神電車の軌間を拡幅する。軌間762mm。 10トン電車と4トン鉱車に増強する。 客車による運行を開始する。 客車の乗車料金を50銭とする。 客車くろがね号、明延鉱山で製造される。 乗車料金が1円となり、一円電車と呼ばれる。 電動客車白金号が作られる。 明延鉱山に近代的な明延病院が完成する。 新しい協和会館が完成する。 電車のパンタグラフ化を行う。 客車わかば号が明延鉱山で製造される。 合理化のため一円電車の運行を終了する。 明延鉱山を閉山する。 |
明神軌道と明神電車
明神軌道は、明延鉱山の大仙粗砕場(だいせんそさいじょう)から神子畑選鉱場までの5,750kmを結ぶ線路です。この線路を走る電車を明神電車といいました。昭和4年に完成し、4トン電気機関車と1トン鉱車を配備しました。昭和16年に軌道を500mmから762mmに広げて輸送力を増大させ、10トン電気機関車と4トン鉱車で鉱石を運ぶようになります。この762mm(2フィート6インチ)という軌間は、軽便鉄道や森林鉄道に使われる軌間です。JRの在来線は1067mm(3フィート6インチ)です。
明神軌道以外は、坑道の内外ともに軌間500mmになっています。大仙から北側にのびる妙見区、南谷抗へ続く線路も軌間500mmで、「五節ズリ捨て線」とよばれていました。
明神軌道には、第1隧道から第5隧道まで5個のトンネルがありました。その中でも第3隧道の明神隧道は最大で、距離は3,937mです。明神電車は鉱石運搬のために1日10往復運行し、客車の一円電車は1日3往復していました。
鉱山学習館前にある客車赤金号と機関車・鉱車 | 神子畑選鉱場跡にある機関車・客車・鉱車 |
生野鉱山跡にある機関車と客車 |
鉱山車両の制作と修理
明延振興館前に、客車くろがね号を牽引した電気機関車18号、自走式客車白金号を展示しています。白金号は昭和27年、客車くろがね号は昭和24年、明延鉱山工作課神子畑機械工場で製造しました。赤金号も明延鉱山の制作です。
また客車あおば号(生野銀山シルバー生野展示)は昭和34年、客車わかば号(神子畑選鉱場跡展示)は昭和35年、明延鉱山の大仙地区にあった鉱車修理工場で製造されました。明延鉱山では電車も自分たちで作りました。電車の製造や鉄道の建設は重要な鉱山技術の一つだったのです。明延鉱山で作られた本物の客車が今も動いています。
送鉱 | 客車 | ||||||
往路 | 復路 | 往路
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復路
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明延発 | 神子畑着 | 神子畑発 | 明延着 | 明延発 | 神子畑着 | 神子畑発 | 明延着 |
8:35 9:50 11:05 13:20 14:35 16:15 17:30 18:45 21:00 22:15 |
9:00 10:15 11:30 13:45 15:00 16:40 17:55 19:10 21:25 22:40 |
9:10 10:25 11:40 13:55 15:10 16:50 18:05 19:20 21:35 22:50 |
9:35 10:50 12:05 14:20 15:35 17:15 18:30 19:45 22:00 23:15 |
8:00 13:00 16:25 |
8:25 13:25 16:50 |
9:15 14:35 17:00 |
9:40 15:00 17:25 |
明神軌道で活躍した電車
電気機関車No.18 (5.5トントロリー)
- 展示場所 明延振興館
- 重量 5.5トン
- 速度 時速10km
- 牽引力 850kg
- 規模 長さ3560mm、幅1210mm、高さ1585mm
- 軌間 762mm(当初は500mm)
- 車輪径 740mm(神子畑展示場5トントロリーと共通)
- パンタグラフ Z型、鉱山学習館10トントロリーと共通
- 製造年 昭和17年4月、三菱電機株式会社製造、製造所は日本輸送機
- 附属品 前面:ホーン1個、ライト1個 後面:ライト1個
- 窓 前側右面1個、後面1個、開閉可能
- ドア 前側左面に入口1個
- 用途 明神軌道の客車の牽引車両、定員1名
- 特徴 当初は軌間500mmの5トン機として生野鉱山に配備されたが、明延で改造して明神軌道で運行
客車くろがね号
- 展示場所 明延振興館前の専用軌道「一円電車明延線」
- 規模 長さ5830mm、幅1250mm、高さ1905mm
- 軌間 762mm、ボギー台車式
- 車輪径 390mm(5トングランビー鉱車と共通
- パンタグラフ・・なし
- 製造 昭和24年、明延鉱山工作課神子畑機械工場
- 附属品 前面:コンセント1個、後面:コンセント1個
- 窓 前面1個、右面5個、左面5個、後面1個
- ドア 中央右側に1個
- 用途 明神軌道専用の客車、定員23人
- 特徴 昭和25年12月4日、三菱鉱業第2代社長羽仁路之氏の視察に伴う特別客車として製造した。設計は服部郁男氏。
- 現在、一円電車明延線客車として利用される。
電動客車白金(しろがね)号
- 展示場所 明延振興館
- 重量 2.3トン
- 速度 時速6km
- 牽引力 228kg
- 規模 長さ2900mm、幅1240mm、高さ1835mm
- 軌間 762mm
- 車輪径 390mm
- パンタグラフ Z型、電動客車赤金号と共通
- 製造 昭和27年、明延鉱山工作課神子畑機械工場
- 附属品 前面:ホーン、ライト 後面:ライト
- 窓・・・・・・・・・・・・前面2個、右面2個、左面2個、後面3個
- ドア・・・・・・・・・・・中央右側に1個
- 用途・・・・・・・・・・明神軌道専用の客車、定員6名
- 特徴・・・・・・・・・・設計は勝部郁男氏
電動客車赤金(あかがね)号
- 展示場所 明延鉱山学習館
- 重量 推定3トン
- 速度 時速9.5km
- 牽引力 340kg
- 規模 長さ3450mm、幅1210mm、高さ1880mm
- 軌間 762mm(当初は500mm)
- 車輪径 前輪630mm、後輪390mm
- 製造 昭和28年、明延鉱山工作課で客車に改造
(参考:『一円電車と明延鉱山』岡本憲之著、神戸新聞出版センター)
但馬の鉱山開発は国家プロジェクト
石見(いわみ)銀山は平成19年に世界遺産になりました。そして佐渡(さど)金山は世界遺産への申請を準備中です。愛媛県新居浜市の別子(べっし)銅山や岡山県高梁市の吉岡(よしおか)銅山も大きな鉱山です。そして但馬の生野・神子畑・明延の3鉱山も、石見銀山や佐渡金山とならぶ重要な近代化遺産です。
明治政府は、国家プロジェクトとして生野鉱山を開発しました。
日本の近代化を指導した御雇(おやとい)外国人(外国人技術者)は、生野に24人、佐渡に7人が派遣されました。生野鉱山などの但馬の鉱山は、日本を代表する近代鉱山となりました。最後まで官営を続けた鉱山が生野鉱山と佐渡鉱山です。神子畑・明延・中瀬もこの中にありました。生野や佐渡は、金や銀という外国貿易に必要となる貨幣となる金属を産出する重要な鉱山でした。明治29年、これらの鉱山も三菱合資会社に経営が移りました。
明治42年、明延鉱山で錫鉱脈が発見されました。これによって生野・神子畑以上に明延の鉱山開発が重視されました。それから閉山する昭和62年まで、78年間にわたって開発が続けられ、東洋一の錫鉱山として繁栄しました。
経済産業省の近代化産業遺産
平成19年、経済産業省は、全国で33地区の近代化産業遺産を決定しました。この中の第25番に「我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」という名称で、生野鉱山・神子畑鉱山・明延鉱山が近代化産業遺産に認定されました。
生野は太盛地区や金香瀬地区など10遺産、神子畑は神子畑選鉱場跡や神子畑鋳鉄橋など5遺産、明延は明延鉱山探検坑道・明神電車と蓄電池機関車・明盛共同浴場「第一浴場」など3遺産です。
明神電車として使われた鉱山車両は、明延だけでなく、神子畑、生野でも保存・展示されています。一円電車は日本の鉱山の近代化を証言する重要な産業遺産です。
鉱石の道
関西地域の鉱山の中でも、生野鉱山シルバー生野と明延鉱山探検坑道は大規模な坑道が見学できる施設です。特に養父市と朝来市は、日本でも有数の鉱山王国であり、多くの鉱山がありました。銀と銅の生野、銀の神子畑、銅と錫の明延、金とアンチモンの中瀬などです。
近代化遺産である生野鉱山・神子畑鉱山・明延鉱山・中瀬鉱山の4鉱山は、兵庫県が全国に誇る近代化産業遺産です。但馬県民局・養父市・朝来市・企業・地元団体が連携し、鉱石の道推進協議会を作って、活用や調査を推進しています。
市町 | 遺産名称 | 内訳 |
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朝来市 | 生野・明延・神子畑鉱山関連遺産(通称:鉱石の道) |
生野鉱山関連施設群(太盛地区) 生野鉱山 甲5・6号社宅 生野鉱山 寺の上社宅群 トロッコ道(口銀谷地区) 生野鉱山官舎・社宅群 生野鉱山関連施設群(金香瀬地区) 鉱山町の町並み 鷹ノ巣ダム及び送水路 トロッコ道(奥銀谷地区) 羽渕鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋 神子畑選鉱場跡(シックナー) 神子畑鉱山事務舎・ムーセ旧居 神子畑選鉱場跡 |
養父市 | 明神電車と蓄電池機関車 明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑) 明盛共同浴場「第1浴場」建家 |
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姫路市、神埼郡・福崎町・市川町・神河町、朝来市 | 陸運関連遺産(生野鉱山寮馬車道 通称:銀の馬車道) | 生野鉱山寮馬車道(通称:銀の馬車道) |
川辺群猪名川町 | 多田銀銅山関連遺産 | 多田銀銅山 |
見学申込
養父市立あけのべ自然学校 (電話 079-668-0258)
歴史文化財課
〒667-1105
養父市関宮613-6
電話番号:079-661-9042
ファックス番号:079-667-2277
更新日:2022年04月01日