八木の文化財

更新日:2019年11月21日

県指定文化財木造金剛力士立像(昭和58年3月4日指定)

金剛力士像

金剛力士像

今滝寺の山門には二体の金剛力士像が安置されています。金剛力士は神通力をもって外敵を追い払うという仏像で、仁王像とも言います。昭和57年に解体修理し、現在地に移転しました。

この時の仏像の修理で、体内から銘文が発見されました。正嘉2年(1259年)3月24日の日付から、鎌倉時代の中期に作られた仏像であることが分かりました。

二体の金剛力士立像は木造の寄木造です。目は大きく見ひらき、視線は互いに内側をむきます。口を開いたのが阿形で高さ235センチメートル、左手に独鈷をにぎり、右手は下にして五指をのばします。口を閉じたのが吽形で高さ247センチメートルあります。

養父市指定文化財八木豊信像

八木豊信像

八木豊信像

戦国時代の八木城主の姿を伝える貴重な肖像画です。八木但馬守豊信は、八木系図では第15代の当主で八木氏による最後の八木城主です。畳の上に座り、僧侶のような法衣をまとっています。

大永4年(1524)生まれで、織田信長より10歳年上にあたります。

天正5年(1577)、羽柴秀長の但馬攻めによって降伏し、天正8年6月から9年3月ごろには羽柴秀吉の鳥取城攻めに武将として従い、鳥取県若桜鬼ケ城を守備しました。天正10年2月には堺の商人津田宗及の茶席に招かれています。その後の消息は分かりませんでしたが、宮崎県佐土原城主の島津家久に仕えました。

上八木の石造十三仏

石造十三仏

石造十三仏

上八木、西方寺の境内には観音堂や中世の石造物群があります。さらに正面の一段高いところには、三柱神社、西宮神社があります。

八木城主の奥方が菩提寺の今滝寺に参拝するのが遠くて難儀なために、城下町に設けた八木氏の菩提寺が西方寺だと言い伝えられています。

石造物群の中に板碑という形式の十三仏があります。高さ79センチメートルの舟形をした凝灰石岩に、四体の仏像を3段に刻み、その上に一体の仏像を彫っています。ここには多くの五輪塔もあります。永正元年(1504)という年号も認められることから、八木氏や有力家臣たちの墓石が集積されたのでしょう。

八木には城主にまつわる色々な伝説や関連地名があります。合戦の血が流れた血ノ谷、矢がふるように飛びかったフルヤヶ谷、八木川にかかる剣橋、弓矢の練習をしたという的場、家老の屋敷があったという家老屋敷、お姫様が琴をひいたという琴弾峠などです。

伊能忠敬の測量日記には

全国の測量の旅に出た伊能忠敬。文化11年(1814)、70歳の時に但馬にも測量にやって来ました。八木城跡の史実とは少し日記の記録が異なりますが、その1月13日の測量日記には次のようにあります。

「恩田御料、下八木村、右四町斗古城跡、字城山、永録二年迄八木但馬守居城、其後天正八年迄別所豊後守居城の由、今滝川板橋五間、中八木村、右に浄土宗竜国寺、一向宗永昌寺、上八木村打止、……略……、下八木村家数八十六軒、中八木村同四十五軒、上八木村同四十二軒、合三ケ村町並人家数、合百七十三軒、惣名八木町と云、駅は三ケ村にて順番に勤と云、止宿、上八木村年寄勝右衛門、下八木村庄屋銀右衛門」。

これは当時の庄屋が、測量隊に提出した資料をまとめて測量日記に書いたものです。日記にある「永禄二年迄」は「天正八年迄」、「天正八年迄」は「慶長五年迄」の誤りだと思われますが、文化年間に伊能忠敬が調べた八木城の様子を伝える資料として注目しています。つまり八木城跡を最初に調査したのは、伊能忠敬だとも言えます。

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