八木の城下町

更新日:2019年11月21日

八木の城下町

八木の城下町

天正13年(1585)、別所重棟は豊臣秀吉から12,000石を与えられて、八木城主になりました。この別所氏が楽市楽座を奨励して、整備したのが八木の城下町です。現在の上八木、中八木、下八木を含む東西800メートル、南北では最大300メートルの範囲です。北側に八木城、東側には今滝寺川、そして南側を流れる八木川を城下町を守る外堀として利用した総構えという防御方法をとっています。但馬国養父郡(やぶのこおり)を治める経済の中心となった政治都市、さらに秀吉政権から任命された大名が住む軍事都市、それが八木の城下町です。

中央には東西に一本街路と呼ぶ大通り(山陰道)があります。道路は「折れ」「クランク」で見通しのきかないように工夫し、町屋が配置されたものでしょう。その上側には、現在は西方寺・永照寺・柳谷寺・実行寺などの寺院がありますが、この付近には寺院や武家屋敷があったと思われます。別所氏の第2代・吉治は、関ケ原の合戦で西軍(豊臣方)に属したため慶長6年(1601)に丹波由良(兵庫県丹波市氷上町)に移され、八木城と城下町は廃止となりました。ほかに、慶長2年に丹波園部に移ったとする説もありますが、園部には行っていません。

八木城跡の赤淵地区(畑ケ中)

赤淵池

赤淵池

赤淵神社

赤淵神社

赤淵には赤淵池があります。赤淵池は堤高4.1メートル、堤長80メートルある大きな池で、天保6年(1835)に潅漑用水と防火用水をかねて作られました。この工事の時、八間四方の柱や茶臼、開元通宝が12貫(45キログラム)も出土したといいます。村では不明となっていた赤淵大明神という八木城主の鎮守社の跡と考え、池の傍に赤淵神社を再興しました。

赤淵神社は朝来市和田山町枚田にある神社が本社であり、八木氏や朝倉氏などの日下部一族の氏神です。

今滝寺・熊野神社(今滝寺)

今滝寺は、八木城主八木氏の菩提寺であり、代々の位牌を祀ります。室町時代には9院3坊が並ぶ大寺院であり、天正8年に八木氏が八木城を去って寺領を失いました。

江戸時代には江戸小川町に屋敷をもつ旗本八木氏と親交を続け、毎年山椒を献上しました。文化10年(1818)に亡くなった八木補之(旗本第7代)の位牌を祀り、法名は覚源院殿従五位下前但州心馨一法旦山大居士とします。補之は兵庫県滝野町の穂積に陣屋を構えた4,000石の旗本であり、日光奉行を歴任し、但馬守を名乗りました。

熊野神社は、今滝寺村の神社です。文禄4年(1595)播州三木の志方葛右衛門尉友実が再建したと伝えます。志方氏は八木城主となった別所吉治の家老とも言います。また室町時代に八木氏は熊野信仰の信者でした。このため今滝寺村には熊野神社があります。

国指定文化財の八木城跡とは

八木城と御里遺跡

八木城と御里遺跡

国指定文化財の八木城跡は、平成9年3月6日に史跡指定を受けました。4か所の遺跡を総合したものです。まず第1に豊臣時代に築かれた高い石垣をもつ八木城跡、第2にその北東に位置して南北朝時代の縄張りを伝えるという八木土城、第3に八木氏の鎌倉時代の屋敷跡という殿屋敷地区、第4に八木氏の氏神である赤淵神社に由来する赤淵地区、この4遺跡です。鎌倉時代から豊臣時代までの約400年間にわたる八木氏の栄華盛衰の道を刻んでいます。

八木城跡の殿屋敷地区(畑ケ中)

八木氏の初代は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府(1192~1333年)の御家人となった朝倉高清という武将の子、安高から始まります。父から八木の地を分け与えられ、地名を苗字として八木氏を興しました。弘安8年(1285年)に書かれた但馬太田文によると、第4代八木泰家は鎌倉幕府から任命された地頭として養父郡八木庄、61町歩を治めています。この時代の館跡が殿屋敷遺跡です。

平成元年に発掘調査をしたところ幅5.8メートル、深さ2.3メートルの堀跡が35メートルに渡って見つかりました。これこそ地頭館である殿屋敷をまもる堀でしょう。殿屋敷は約一町四方の正方形の土地です。殿屋敷の前には古市場という地名もあります。ほかにも12世紀~14世紀にかけての中国製の青磁や白磁などの輸入陶磁器が数多く出土しました。養父郡内で最も繁栄していたことが分かりました。

御里遺跡

御里遺跡から出土した青花碗

御里遺跡から出土した青花碗

平成12年の農道の建設に伴う発掘調査によって八木城跡の麓にある御里(おさと)遺跡から、「天下太平」の文字が入った中国製の青花碗(せいかわん)の破片が出土しました。

出土したのは碗の底部にあたる高台の部分です。直径4.4センチメートル、高さ1.6センチメートルです。「天下太平」の文字が縦8ミリメートルから12ミリメートルの大きさで、上下右左の順で書き込まれています。 内側には人物が描かれ、手を前で組んで靴を履いた人物がみえます。もともとは直径15センチメートル、高さ8センチメートルの碗であったと思われます。

青花は、青い文様の意味で白磁の一種です。明の末期ごろ、景徳鎮の民窯で生産されたものです。「天下太平」の文字が入ったものが当時好まれ、輸入されたものです。同様の出土例は、天正年間の姫路城跡、和歌山県根来寺のほか、越前朝倉氏遺跡の一乗谷遺跡でも見られます。

八木城には天正13年、別所重棟が入城します。御里遺跡は八木豊信から別所氏にかけての八木城主の館跡とみられることから、青花の椀は別所重棟らが日常品として使ったものではないかと推定しています。

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