樽見の大桜の歴史
出石藩と仙桜
衰退した大桜(平成2年)
樽見の大桜は樹齢が千年を越えており、別名を仙桜(せんざくら)といいます。出石藩の儒学者桜井石門(さくらいせきもん)(桜井一太郎)が、文政6年(1823)3月、樽見の大桜を見学して仙桜と命名しました。
大正11年(1922)桜井勉(さくらいつとむ)が著した『校補但馬考』という書物には、「この樹は、元禄年間(1688~1704)前後に最も盛んで、その当時は高さが5丈(15.1m)を超え、枝は20間(36.3m)四方にひろがり、花が咲くと、白雪に覆われたように白くて美しい。出石藩主小出英安(こいでふさやす)侯(1637~1691)も見学に訪れた」と記しています。
また明治3年、出石藩知事仙石政固(せんごくまさかた)侯と桜井勉が、麓から見上げた時には、桜は勢いよく杉や檜の上に突き出ていたと言います。
衰退した大桜(昭和62年)
大正15年の写真を見ると風格のある兵庫県下最大の桜樹です。桜の周囲には下草の笹が繁り、山の斜面に幹が立っています。昭和6年5月20日、兵庫県指定天然記念物となりました。
昭和61年には、大桜の周囲1万平方メートルの杉を伐採し、日当たりを広くして公園化を進めました。しかし平成2年には樹木の衰退は止まらず花も咲かず、枯れる寸前の状態となりました。
中学生の遠足(昭和37年4月)
昭和初期から養父郡内の各地の小学校が春の遠足で大桜の見学に訪れています。昭和37年の口大屋小学校の記念写真では、樹勢が衰えていますが、巨樹として素晴らしい風格があります。
平成8年兵庫県樹木医会は、大桜の樹勢は重症ですが、樹の生命力によって樹幹内部に小さな根が発生しており、この根を大切にして、桜の樹勢回復を図りたいと報告しています。
エドヒガンザクラ
樽見の大ザクラは、エドヒガンザクラという日本に古くから自生する品種です。日本にはヤマザクラやオオヤマザクラをはじめ、カスミザクラ、オオシマザクラ、マメザクラ、チョウジザクラなど10種類ほどの自然種があります。その中でもエドヒガンザクラは巨木になりやすい品種で、多くの銘木があります。
全国各地で見られるソメイヨシノ(染井吉野)は、明治時代の初めに東京の染井村から広まりました。エドヒガンザクラとオオシマザクラの雑種といわています。ソメイヨシノは人工的に作られた園芸用の品種で、エドヒガンザクラの性質を一部受け継いでいます。
樽見の大桜 年表
資料1 『校補但馬考』桜井勉著 大正11年7月発行
樽見村蹴占(けじめ)山にあり。里人いふ。此樹の最も盛なりしは、元禄(1688~1704)前後にして、当時は高五丈(15.1m)に過ぎ、枝柯(しか)東西南北各二十間(36.3m)にわたり、花時に至るごとに、皎々(こうこう)として白雪の如くなりしかば、出石城主小出英安(ふさやす)公特に来て之を観たまひしことありと。余が先人(桜井石門)も、文政六 (1823)年三月を以て之を賞し、呼(よび)て仙桜となし、為めに古風の詩を賦(ふ)す。詩中に、星霜不知数。名樹国無両。周匝(しゅうとう)過三囲。蟠蜿(はんわん)殆十丈。花若鮮妍兮(げんけい)積雪。枝若夭矯(ようぎょう)兮修蟒。東風吹起雪翻空。白日失光忽黨莾。
文政六年は、今茲(いまより)大正七(1918)年を距(へだた)ること、殆(ほとん)ど百年なり。恨(おしむら)くは、里人利を重んじて、名樹を軽んじ、四面にうふるに杉檜を以てす。然れども、余(桜井勉)が明治三(1870)年に出石藩知事仙石政固(まさかた)君に従ひ、其麓を通過せしときは、其幹亭々として猶(なお)杉檜の上に挺立せしか。爾来(じらい)又殆(ほとん)ど五十年。其周回二丈(6メートル)余と其高五丈余は依然往年に異ならすといえども、枝柯(しか)に至りては、漸次杉檜の為に逼迫(ひっぱく)せられ、今や東西十間(18.1m)、南北十二間(21.8m)に過ぎず。人をして長大息(ちょうたいそく)に堪えへさらしむ。
資料2 『兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告書第4号』昭和2年(1927)3月発行
樽見の大桜(大正15年)
山陰線養父駅に下車し県道八鹿若桜線を行くこと約20キロにして養父郡口大屋村役場に達す。其の間自動車の便あり、約1時間にして達することを得べし。仙桜は同地道路元標より東南約1キロ山腹桑園中に聳立す。樹種は白彼岸に属し、県下最大の桜樹たり。地上約2メートルにして数幹に分れ、樹冠の拡り3.8アールに達す。枝に枯死せる部分多く、樹勢稍衰ふ。 地上1.5メートルの幹回 5.15メートル。樹高 20.0メートル
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更新日:2020年04月02日