大型横穴式石室の検証

更新日:2019年11月22日

大型横穴式石室の変化

禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳の4基の古墳の石室を古いものから順番に並べました。 横穴式石室の玄室(げんしつ)の石材の組み方を基準にして、変遷を考えてみます。

禁裡塚古墳は、A・B・C・Dの4石の基底石があります。そして側壁の石材は、1・2・3・4と書いたように4段積んでいます。 これを4石4段構造の石室と名付けました。細かく見て5段とか6段にも見えますが、4段の区切りと考えました。天井部は見上げ石から羨道(せんどう)入り口に向かって少しずつ高くなっています。これが大薮の特徴になっています。

塚山古墳はA・B・Cと1・2・3です。側壁には基底石を3石使い、壁を3段に積んでいます。3石3段構造です。奥壁は5石を使って3段に組みます。奥壁3段構造です。

禁裡塚古墳、塚山古墳の実測図

禁裡塚古墳、塚山古墳の実測図

西ノ岡古墳はA・B・Cと1・2・3があります。基底石を3石使って、側壁を3段に積んでいます。これだと塚山古墳と全く同じ扱いになりますが、西ノ岡古墳は奥壁が2段積みです。3石3段・奥壁2段構造です。

こうもり塚古墳はA・B・C・Dと1・2があります。基底石を4石使って、側壁を2段に積んでいます。4石2段構造です。奥壁はほぼ1石に近くなっていますが、2段積みになっています。天井部では玄室と羨道が同じ高さで見上げ石がありません。そしてこうもり塚古墳の次に、無袖式の横穴式石室である野塚3号墳のような古墳が一般化します。

西の岡古墳、コウモリ塚古墳の実測図

西の岡古墳、コウモリ塚古墳の実測図

奥壁は禁裡塚古墳のように小形の石材を4段以上も積むものから西ノ岡古墳のように大きな石材を2段に積むものへと変化します。そしてコウモリ塚古墳のような、ほぼ1石を置くような形態になります。側壁は4段積みから3段積み、2段積みへと簡略化します。また玄室の高さは、禁裡塚古墳・塚山古墳をピークとして、次第に低くなります。最後はこうもり塚古墳の180センチメートル程度へと大変低くなります。

こうした石室の変化は、6世紀後半から7世紀中頃にかけての約70年間に、大薮古墳群の大型石室が小型化していることを示しています。こうした石室の変化は大和の大型石室をもつ古墳でも見られます。

但馬の大型横穴式石室一覧表

石室一覧

市内小学生の見学会

市内小学生の見学会

横穴式石室における大型の定義は難しいですが、石材の規模、石室の全長、玄室の高さ、玄室の平面積、玄室の体積などの比較で定義されます。ここでは玄室の推定体積を基準として、但馬の大型横穴式石室を記録しました。

古墳時代後期の大型古墳を考える場合の目安を、次の3点とします。

第1に墳丘の直径が30メートル以上あること。

第2に石室の長さが11メートルをこえること。

第3に石室の中の天井石までの高さが3メートルをこえること。

この3条件を備えた古墳を探ってみると、大薮古墳群にある禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ岡古墳の3基に加えて、養父市の堀畑1号墳、豊岡市日高町の楯縫古墳が該当します。塚山古墳と堀畑1号墳とは、同規模同型の石室だという指摘があります。

つまりこうした古墳は飛鳥時代の但馬国を治めた最高権力者のお墓だと考えています。それが3世代にわたって次々と作られている地域が大薮古墳群です。古代の養父郡に「但馬氏」がいました。「日下部」の本拠地でもあります。但馬を代表する豪族がこの地域にいたと考えています。

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