人名を刻んだ経筒の発表(平成13年度)

更新日:2019年12月05日

びくに経塚・古墳群

遺跡の全体風景

遺跡の全体風景

この遺跡は昭和63年12月に八鹿町教育委員会が宿南農道整備事業にともなって発掘調査した遺跡です。びくに古墳の墳丘に作られた3-2号墓の石室の中から土師器(はじき)製筒形容器(以下、土師筒と略す)が出土しました。 土師筒は北近畿型(丹後型ともいわれる)とよばれている経筒で、表面に綾部(あやべ)桓吉という人名が発見されました。12世紀後半のもので、但馬に「綾部」という氏名が存在することが判明しました。特に北近畿型の土師筒を埋納した経塚の利用形態を研究する上で貴重な資料になります。

びくに経塚と周辺の遺跡

                                びくに経塚と周辺の遺跡

調査遺構

土師器の経筒

                   土師器の経筒

この土師筒は昭和63年12月に宿南農道整備事業に伴う発掘調査によって発見しましたが、文字が判読できずに放置されていました。 豊岡市出土文化財管理センターが「但馬の経塚と古墓」調査を精力的に進め、これまでは丹後型と呼ばれていた土師質の経筒(きょうづつ)が但馬にも広く分布することを確認し、北近畿型の土師筒に変更すべきだと提案しました。こうした取り組みの中で今回の土師筒の再調査も進められました。そして文字は施主を示す人名であると判断しました。平成13年12月18日、奈良文化財研究所に持参して鑑定をえて「綾部桓吉」という判読文字が確定しました。県下でも初めての綾部という氏名を示す「部」にあたります。

遺跡の概要

標高91メートルにある独立丘陵の頂上に、びくに古墳が作られています。この古墳の墳丘を再利用する形で8基の古墓・経塚が作られていました。1号墓から5号墓までありますが、3号墓は3-1・3-2・3-3号墓と呼びます。この中の3-2号墓に人名を書いた土師筒が置かれていました。 さらに、びくに古墳から北東方向にくだる尾根の斜面には、7段の平坦部が作られ、約30基の古墓を発掘しました。このため経塚・古墓群を全体として考えると、約38基の古墓が作られていることが判明しました。 これらの古墓群の最も高い位置に作られているのが3号墓です。そして38基の中で小石室を伴う古墓は、3-1号墓・3-2号墓・3-3号墓の3基だけです。その内の3-2号墓が土師筒を伴う経塚でした。こうした状況から考えてこの3号墓が、古墓群の形成の契機となって最初に作られたものと考えられます。

3-1号墓(蓋石は削平されて欠損)

    3-1号墓(蓋石は削平されて欠損)

3-3号墓(蓋石除去作業後)

      3-3号墓(蓋石除去作業後)

びくに古墳群は、12世紀後半から14世紀まで利用された火葬墓です。13世紀から16世紀に作られたものを中世墓と呼ぶことから、びくに中世墓群という名称で発掘調査をしましたが、今回の調査によって築造年代が12世紀にあたる平安時代末期にさかのぼることから、「中世墓」とよばずに「古墓」としました。

経塚とは、藤原道長が吉野に金峰山(きんぷさん)経塚(1007年)を作ったものが最古で、土の中に小石室をつくり、経筒に教典を入れて埋納した塚です。教典を後世に伝えるために作られましたが、極楽往生を目的に作られるようになります。但馬では出石町多田地遺跡の銅製経筒が12世紀前半のもので、最も古い事例です。

3-2号墓について

3-2号墓は古墓群の最上部につくられたもので、経塚を併設した古墓と考えられます。2区画の小石室を接続させて作っており、火葬墓と経塚を一対として設置したものと考えられます。 南北98センチメートル、東西72センチメートル、深さ44センチメートルの土壙に、2室に区分された小石室をつくります。そして長さ24センチメートル、幅19センチメートル、高さ25センチメートルの石室に、土師筒に蓋をあわせて立てて経典を埋納します。これが経塚です。 それに接して長さ28センチメートル、幅18センチメートル、高さ24センチメートルの小石室があります。内部に人骨は確認できませんでしたが、火葬骨が埋納されたと推定しています。この小石室の内外から開元通宝(621年初鋳)・大観通宝(1107年初鋳)など日宋貿易で日本にもたらされた銭が6枚出土しました。大観通宝という銭の年代から考えて12世紀以降にこの墓が作られたと確認できます。 そして小石室の上にはそれぞれ、扁平な石材を置いて蓋石としています。

3-2号墓の検出状態

        3-2号墓の検出状態

蓋石を除去した状況

       蓋石を除去した状況

びくに経塚の実測図

びくに経塚の実測図

調査遺物

土師筒(はじつつ)について

土師器(経筒)

土師器(経筒)

土師筒は土師器製筒型容器とよばれるもので、経塚に教典をおさめる容器として使われるものです。土師筒の筒身は高さ24センチメートル、口径14.5センチメートル、底径15.8センチメートルの円筒形の土師質容器です。時代がさがるにつれて器高が低くなる傾向があることから、古い事例で、時期は12世紀後半と考えています。底部に対して口縁部が内側に傾いて狭くなっています。 また蓋は口径17.6センチメートル、高さ3.2センチメートルです。筒身の口径に対して3.1センチメートルも広いものです。発見当時は蓋の中心部は筒の中に落ち込んで、縁部が筒の外側をまくような形で出土しました。 従来は丹後型土師筒と呼ばれてきましたが但馬の5箇所で土師筒が発見されたことから、但馬でも普及していたと考えられます。このため丹後から但馬に分布圏を持つ北近畿型の土師質の経筒と考えるようになりました。

人名について

土師器に刻まれた文字

土師器に刻まれた文字

       「綾部桓吉」

古代には氏名と人名(例:源・平・日下部)が使われます。12世紀ごろから苗字と人名(例:朝倉高清)が使われるようになり、中世以降に主流となります。綾部が氏名で、恒吉が人名になります。古代の慣習を受け継ぐ、部をつけた氏名であることが注目されます。銅製経筒の場合には、文・日付・人名を書いたものが全国的には見られますので、今回の事例はこれを省略したもので、施主にあたる人名だけを書いたものだと考えられます。 綾は「細い絹糸をもって織りあげ、練りをきかせて糸の光沢をまし、すべすべした冷ややかな感を与える織物」です。絹糸を使った機織りに関係する氏名と考えられます。

まとめ

土師器(実測図・拓本)

土師器(実測図・拓本)

但馬・丹後に分布する経塚には、土師筒、鉄製経筒、銅製経筒を使ったものがあります。今回、丹後・但馬に分布する経塚に使われる土師筒を北近畿型土師筒と呼ぶよう提唱しました。この土師筒を使った経塚祭祀のあり方を示す基準資料として貴重です。 さらに考古資料の土製品に人名を記したものは、但馬で初めての発見です。またそれが兵庫県でも初めて確認された綾部という古代の氏名を実証するものです。 また2区画の小石室に、火葬墓、経塚が一対として設置されています。このことから極楽往生を願って火葬墓に接して経塚が埋納されたと考えられます。そして時期が古いことから、これによってびくに古墓群の造墓活動が始まったと考えられます。いずれにしても北近畿型の土師筒を使う経塚における、出現期の利用形態を知る上で、貴重な事例となります。

資料

びくに古墳の墳丘上には、1号墓から5号墓と呼ぶ古墓があり、8基の埋葬施設が作られています。ここには小石室タイプと集石タイプの2形態があり、前者は石材で作った小石室を作ります。小石室はいずれも四壁と床板、蓋石を備えて、周囲を石材で囲んでいます。後者は土を掘った穴(土壙)に人を埋葬し、その上に集石を置いたものです。 比丘尼(びくに)に隣接して地蔵ケ平(じぞうがなる)という地名があって、古墓と縁の深い地名があります。小字は寺山であり、宗教的な場所であったことが地名からも読みとれます。

びくに古墳上に作られた古墓の一覧

びくに古墳墓一覧

びくに古墳墓一覧

基礎資料:平成13年12月20日の新聞発表資料を加筆訂正して作成しました。

参考文献:但馬考古学研究会作成「第19回但丹交流会資料、

中世土器と経塚・古墓、但馬側資料集、第1分冊」(2001年12月1日から2日)

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