葛畑・宝篋印塔の調(平成16年度)

更新日:2019年12月05日

葛畑の宝篋印塔

葛畑の宝篋印塔

葛畑の宝篋印塔

葛畑字林ヶ鼻に所在する石造の宝篋印塔は室町時代の築造とされ、昭和55年に関宮町の指定文化財になりました。県道福岡関宮線の改良工事に伴って、宝篋印塔を移転するために、平成16年4月から養父市教育委員会が文化財調査を実施しました。

宝篋印塔の現況や周辺地形などを調査した後、宝篋印塔を撤去すると、下から石組みの遺構や備前焼の壺が発見されました。地下に中世の遺構が良好に残っていることが判りました。このため周辺部についても6箇所に試掘トレンチを設定し、中世墓などの調査をしましたが、これ以外に文化財は確認できませんでした。

現在、宝篋印塔は葛畑字神場の観音堂境内に移築されています。

調査前の宝篋印塔

        調査前の宝篋印塔

調査前の宝篋印塔

          調査前の宝篋印塔

宝篋印塔の調査

立地

調査前覆いがかかる

調査前覆いがかかる

関宮から大野峠を越えて村岡町福岡に至る経路(現県道福岡養父線)は、古くからの街道であり、明治の終わりから但馬トンネルが完成する昭和40年代までは、国道として利用されていました。葛畑集落は、江戸時代は村岡藩に属し、昭和31年までは美方郡熊次村に位置していました。このため葛畑集落は、村岡から熊次村への入口にあたりました。葛畑集落から別宮や川原場を経由して熊次地区に至る里道は利用度の高い道でした。

宝篋印塔は、大野峠越えの街道と別宮に至る里道が分岐する正面の尾根に立地しています。葛畑集落を見渡すことができる標高394メートルの場所にあり、南面した尾根の先端部に単独で築造されていました。

宝篋印塔の基壇調査

基壇の検出

                          基壇の検出

基壇の断ち割り

                    基壇の断ち割り

基壇を半分に断ち割ったところ

        基壇を半分に断ち割ったところ

宝篋印塔の下から、「コ」字形に石材を組んだなかに玉石を充填した方形の基壇を検出しました。基壇の規模は、基底部で東西約2.8メートル、南北約1.9メートルを測り、玉石は最も残りのよいところで、およそ60センチメートルの厚さがありました。

基壇は、尾根先端部の斜面を約1.2メートル削り込んで、奥行き(南北)約1.9メートルの平坦地を作り出したのち、のり面の前方に「コ」字形に石材を組んで方形の 区画を作っています。西辺の石組みが最も残りがよく、長辺60センチメートルほどの大ぶりの石材を横長に用いて、1段ないし2段に積んでいます。石組みの内部は 3センチメートルから10センチメートル大の玉石によって充填されており、約5万個、総重量およそ2.5トンに及ぶ玉石が入っていました。角が丸くなった程度のものが多く、付近 の葛畑川でも類似した石を採取することができます。玉石については、礫石経の可能性があるので、水洗いして調べてみましたが、文字等を書いたものは確認できませんでした。

基壇内にはやや南東寄りに備前焼の壺が埋納されていました。壺は底部を打ち欠いて孔をあけており、内部には火葬骨が納められていました。  

宝篋印塔調査区平面図

宝篋印塔調査区平面図

宝篋印塔の外観

宝篋印塔は、但馬では鎌倉時代後期以降に造られはじめ、供養塔や墓塔として建立され、五輪塔とともに普及しました。構造は、基礎、立方体に近い塔身、4隅に隅飾りをもつ階段状の笠、相輪を積み上げたものが一般的です。

葛畑の宝篋印塔は多孔質の凝灰岩で造られています。相輪が3つに折れていますがほぼ完全な形を保っており、総高はおよそ107センチあります。しかし、よく観察すると、相輪の石材が他とはやや異なっているようなので、相輪は別個体か、後補の可能性があります。笠は、軒の上が6段、下が2段の階段状をなし、 4隅に立つ隅飾りはやや外傾し、内側に輪郭を刻んでいます。塔身は、4面に金剛界四仏の種子を刻していますが、ウーン(東)・タラーク(南)・アク (北)・キリーク(西)と変則的な配列になっています。基礎は、四面ともに輪郭を刻んでいますが格狭間は省略しており、正面のみ輪郭内に宝瓶三茎蓮を彫り 出しています。基礎上面は一段を作り出した上に蓮弁を刻出しており、類例のない特徴的な作りになっています。

宝瓶三茎蓮は、蓮華の3本の茎を表現したもので、近江(滋賀県)の石造遺物のなかに多く見られることから、近江式文様といわれています。但馬ではこれまで8基が確認されていますが、そのうちの4基が養父市にあり、浅野、長福寺、八鹿町永源寺と葛畑に所在しています。

なお、葛畑の宝篋印塔は、基礎の下をコンクリートで固めてありました。近年、修理などに伴って塔の組み替えが行われています。

宝篋印塔実測図

         宝篋印塔の実測図

基礎の文様・宝瓶三茎蓮

         基礎の文様・宝瓶三茎蓮

4.まとめ

4.まとめ
備前焼の骨壺器

         備前焼の骨臓器

宝篋印塔の下から方形の石組み基壇を検出しました。基壇は、地山を削り出したのり面の前方を「コ」字形に石を組んで区画し、石組みの内部に2.5トンもの 玉石を充填した特異なものでした。基壇内に備前焼の蔵骨器が埋納されていたことから、墓であったと考えられます。しかし、蔵骨器が基壇の南東寄りに埋納されていたこと,基底面から20センチメートルほど上の玉石内に置かれていたこと等を考えると、当初のものと断定しがたいところがあります。

蔵骨器の備前焼の壺の年代は、古くとも15世紀代と考えられます。底部が大きく、丸味の強い短胴の壺は、15世紀頃に出現し、近世に至るまで作られました。一方、宝篋印塔は、銘文等はありませんが、形態等の要素をみると南北朝末期から室町初期との年代観が与えられています。

宝篋印塔と蔵骨器の年代観にずれがあることから、宝篋印塔が基壇築造以降に他所から持ち運ばれてきた可能性があり、より慎重な検討が必要でしょう。

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