八木・御里遺跡の発掘調査(平成14年度)

更新日:2019年12月04日

御里遺跡

上空からの八木地区

上空からの八木地区

国指定文化財の史跡八木城跡の山麓南斜面に位置する御里遺跡は、八木豊信の城主館跡と推定されています。また豊臣秀吉から大名として八木に領地をえた別所重棟・吉治の城主館や八木藩の藩庁なども、御里遺跡に置かれたと推定されています。平成14年度は掘立柱建物や敷石遺構が発見されました。

調査遺構

過去の調査

史跡八木城跡は平成9年3月6日に国指定文化財になりました。御里遺跡は国指定文化財八木城跡の山麓に位置し、いわゆる根小屋といわれる位置に立地します。戦国期の八木豊信や豊臣期の別所重棟にかかわる城主館や武家屋敷が広がっています。

八木豊信は織田信長の発給文書に名をのこす但馬を代表する有力国人の武将であり、天正8年(1580)まで在城し、羽柴秀吉の家臣として因幡若桜鬼ケ城に移りました。その後、別所重棟は天正13年に豊臣大名として入封しました。これまでの調査によって16世紀第3四半期から第4四半期にかけての青花碗・天目茶碗・瀬戸美濃陶器・土師器皿などの重要な遺物が出土しています。

八木城と城下町(赤線内が御里遺跡)

                         八木城と城下町(赤線内が御里遺跡)

平成12年度には、遺跡を東西方向に横断する形で農道整備事業が実施されました。その時の埋蔵文化財調査(第3次御里遺跡発掘調査)で、大型井戸や3間幅の道路遺構を発見し、さらに敷石遺構など多くの石材を使った遺構を発見しました。

また平成13年度の第4次御里遺跡発掘調査では、黄褐色土と黒褐色土を交互にうめた造成土(整地層)と、その下層の礎石建物という2時期の遺構があることが判明しました。

第3次調査の大手道遺構

            第3次調査の大手道遺構

第3次調査の井戸遺構

             第3次調査の井戸遺構

平成14年度の調査

第1トレンチ
敷石遺構

発掘調査で土を掘りおこしている四角い範囲をトレンチと呼びます。その第1番目の場所を第1トレンチを呼びます。トレンチの中央部の北よりから敷石遺構を検出しました。幅約2メートルで、長さ6.7メートルの範囲にあり、東西方向に石列が並んでいます。敷石は長さ40センチメートルほどの大型の石材で、表面を埋めています。敷石の最も下には2センチメートル程度の礫を置き、大型の石材の間には10センチメートルほどの石材でうめています。遺構は、道路や建物基礎などの可能性がありますが、現状では断定できません。

畝状遺構

敷石遺構の南側には幅30センチメートルから40センチメートルの東西方向の小規模な溝が、6本並んでいます。黄褐色の地山に黒褐色土を埋めた溝です。これは敷石遺構の下にもぐりこんで、北側にも続いています。敷石遺構の下層であることから、城館跡として利用されたものです。畑の畝の可能性があります。

第1トレンチ 敷石遺構・畝状遺構

第1トレンチ 敷石遺構・畝状遺構

調査風景

調査風景

第2トレンチ

平成10年度に実施した第1次調査で、長さ1間、幅2間の掘立柱建物を検出しました。今回は、その南側への広がりを確認しました。この調査の結果、建物の全体規模としては、南北4間、東西2間の掘立柱建物で、北側の長さ2間、幅2間が総柱になる建物と判明しました。特に造成土と呼んでいる整地層の上面から掘りこまれた建物であることが確認できました。

第2トレンチ平面図

                                                                  第2トレンチ平面図

まとめ

これまでの調査成果で、御里遺跡のある台地全体で大規模な造成が実施されていることが確定しました。範囲は東西310メートル、南北130メートルに渡ります。第2トレンチでは、この造成土(整地層)の上面に作られた長さ4間、幅2間の掘立柱建物が確認できました。また第1トレンチでは畝状遺構、敷石遺構、南北溝といった形で、遺構の変遷を確認することができました。

造成土の下層遺構と上層遺構という区分にくわえて、台地の利用の変遷についての資料が増加してきました。仮説として下層遺構を天正期までの八木氏段階の城館跡と推定し、大規模な造成土(整地層)は天正13年入封の別所重棟ないし文禄・慶長期の別所吉治の城主館に対応するのではないかと推理されますが、考古学的に実証するに至っていません。このため大規模な屋敷の造成の実施時期を確定することが課題になっています。

トレンチ配置図

                               トレンチ配置図

この調査の中で八木御里遺跡が、戦国期から豊臣期にかけての国史跡八木城跡の城主館であることを確認し、その城主館としての資料が増加してきました。しかし別所氏時代の城主館や石垣、さらには八木藩の藩庁といった具体的な建物が整然とした形で全域に完成していたかどうかは、まだ未解明です。

豊岡城の城主館は慶長2年(1598)に入った杉原長房が城郭石垣に改修したと考えています。八木御里遺跡は城郭石垣に改修せずに慶長5年の廃城を迎えた城主館として重要だと考えます。

歴代八木城主年表

歴代八木城主年表
八木安高 承久3年
(1221)
朝倉高清の子。八木を分け与えられ八木氏を興す。
八木殿屋敷に館を構える。
承久の乱で鎌倉幕府に味方して興隆する。
八木高吉 建長2年
(1250)
吾妻鏡に、御家人として、八木三郎と名乗る。
正嘉2年
(1257)
常光寺(現在は今滝寺)に仁王像が建立される。
八木家高 建政元年
(1275)
次郎と名乗る。
京都八幡宮造営にあたり、五貫を寄進する。
八木泰家 弘安8年
(1285)
又次郎と名乗る。法名覚圓。八木庄(61町歩)の地頭である。
八木重家   弥二郎と名乗る。法名・覚恵。初めて八木に築城するという。
八木家直   孫二郎と名乗る。
八木高重   法名・蓮阿。
八木直重   法名・常光寺殿宗栄。
八木重秀   法名・宝林院殿道彗。
八木頼秀   法名・臨川院殿宗林。
八木重頼   法名・曹源院殿宗材。
八木宗頼 寛正6年
(1465)
将軍の大原野花見に山名宗全を補佐して出席する。
(応仁元年(1467)応仁の乱。山名宗全西軍大将として戦う。)
文明5年
(1473)
山名宗全死去。山名教豊の重臣となる。
文明12年
(1480)
但馬守護代となるもよう。
文明15年
(1483)
八木在住。伊勢貞宗から太刀光正を贈られる。
文明16年
(1484)
播磨野口の合戦に出陣して奮闘する。
子・聖芳を常光寺の住職とする。
法名・大樹院殿長川宗久。花八重立老翁となる。
八木貞直 明応6年
(1497)
小佐郷内の田地一反を妙見社に寄進する。
永正元年
(1503)
西芳寺の宝篋印塔が建立される。
法名・済川院殿宗森。
八木直信 天文15年
(1546)
宗頼の子宗世の33回忌を宗世寺で行う。
弘治3年
(1557)
小佐郷内の田地を妙見社に寄進する。
法名・隋琳院宗松。
八木豊信 元亀元年
(1570)
織田信長は豊信ら但馬の四天王に書状を出す。
姉川の合戦で、朝倉浅井軍敗れる。
元亀4年
(1573)
浅間寺に日光・月光像などを寄進する。
天正元年
(1573)
織田信長は京都に信長政権を開く。
天正2年
(1574)
豊信、浅間寺薬師堂を建立する。
天正5年
(1577)
羽柴秀長らの第一次但馬攻めで降参する。
天正7年
(1579)
吉川元春、八木城と竹田城を毛利方の拠点と見る。
天正8年
(1580)
第二次但馬攻め。八木城から鳥取若桜城に転身する。
羽柴秀長は出石城主になる。
別所重棟 天正13年
(1585)
豊臣秀吉から八木城主に任じられ大名となる。
養父郡の内で1万2千石を得て八木藩を興す。
豊臣秀吉が大坂城で関白政権を開く。
別所吉治 天正19年
(1591)
八木城主を継ぐ。
文禄2年
(1592)
文禄の役で朝鮮に350人を率いて出陣する。
1万5千石に加増される。家老志方友実・今滝寺熊野神社を修築する。
慶長5年
(1600)
西軍の石田三成の督促に応じて東軍の丹後田辺城を攻める。
北由良に転封される。
関ヶ原の合戦で八木城廃城となる。
(慶長2年廃城説もある)

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