八木・殿屋敷遺跡の調査(平成20年度)

更新日:2019年12月04日

殿屋敷遺跡

現地説明会の様子

現地説明会の様子

八木城跡は平成9年3月6日に国指定文化財になりました。その1年後にあたる平成10年4月11日・12日に、但馬八木城跡国指定記念事業が行われました。それから10年がたち、今回の発掘調査に合わせて現地説明会を行いました。

平成10年度から平成16年度まで下八木地区にある八木御里遺跡を発掘調査しました。そして平成19年度から八木殿屋敷遺跡を発掘しています。殿屋敷の調査は2年目になります。また今年6月には赤渕池の改修工事に伴って現地確認調査を実施しました。今回の発掘調査の大きな成果は、殿屋敷を取り囲む堀が発見されたことです。その堀は、東側・南側・西側の3方向をコの字形に取り囲んでいることが判明しました。

東堀(北から)

                    東堀(北から)

西堀(北から)

                      西堀(北から)

西堀と南堀の合流点(南から)

         東堀と南堀の合流点(南から)

西堀(南から)

                      西堀(南から)

但馬で堀をめぐらした武士の館は、この殿屋敷遺跡が実質的に初めての調査になります。山名宗全の四天王の一人として活躍した但馬八木氏の館が具体的な形で姿を現してきました。そして16世紀前半から中頃に、殿屋敷遺跡から御里遺跡に八木氏の館が移転した可能性が高くなってきました。御里遺跡は、今滝寺川を堀の代わりに使うことができて防御性が優れます。

殿屋敷遺跡は、織田信長が活躍した時代の前段階に廃止された武士の館で、但馬八木氏の八木館です。この時代では兵庫県を代表する大変重要な武士の館です。

発掘調査の概要

トレンチ一覧

殿屋敷遺跡は、城山の東の裾部を流れる今滝寺川の左岸に位置し、南に面した山麓にある台地上に立地しています。遺跡は東西80メートル、南北60メートルもの広さをもつ方形に区画された平坦地(中段)を中心として、その南と北にそれぞれ下段、上段の細長い平坦地を造成しています。この中段の平坦地では、平成元年度の調査によって内堀の一部が確認され、室町時代の八木氏居館跡が存在すると考えられてきました。

養父市教育委員会では、史跡整備の基本設計に備えて基礎資料を得る目的で、平成19年度から発掘調査を実施しています。平成19年度は殿屋敷遺跡の下段と、中段区画の南側について確認調査を実施し、居館推定地の東辺と南辺を囲む堀を確認しました。平成20年度は中段の区画を中心に確認調査を実施し、西辺を区画する堀と東辺の堀がさらに北側に延びることを確認しました。堀は幅3.5~5メートル、深さ1.5~1.7メートルの規模をもち、地山を逆台形に掘り込んで作られています。堀に囲まれた区画内では、調査区の北西側を中心として柱穴や礎石が確認されたことから、掘立柱建物や礎石建物が建っていたと推定されます。また、東側では40センチメートル程度の石を並べた石列や石敷き遺構が見つかりました。堀を埋めて作った庭園跡の可能性を検討しています。

礎石建物跡

                       礎石建物跡

庭園跡と思われる遺構(東から)

         庭園跡と思われる遺構(東から)

掘立柱建物跡

                     掘立柱建物跡

庭園跡と思われる遺構(北から)

         庭園跡と思われる遺構(北から)

殿屋敷遺跡の遺構配置

1)位置

殿屋敷遺跡は養父市八鹿町八木小字殿屋敷にあります。東西115メートル、南北110メートルのほぼ正方形の土地区画となっています。標高は北側で標高109.1メートル、南側で標高102.1メートルであり、その高低差は7メートルあります。土地は、標高107メートルから109メートル、標高103メートルから105メートル、標高102メートルの3段に造成されています。西側3分の2は昔のからの畑地として残り、東側3分の1は平成元年に圃場整備が実施されました。

現在では、小字殿屋敷(台帳面積9,808平方メートル)の全筆と北側に隣接する小字赤渕(台帳面積18,849平方メートル)の全筆が、史跡八木城跡の範囲として国指定文化財になっています。

立地は、南向きに開けた台地状の地形の中心部にあたります。殿屋敷を中心として小字名は東が上井、南東が四ツ井、南が古市場、西が谷川向、北西が知庵、北が赤渕です。弘治3年(1557)の但馬国にしかた日記には、住居表示として「よつい」「市場」の地名が記録されています。また知庵は、地名から寺院跡であると考えられます。平成元年度の調査で発見された12世紀後半から13世紀前半の遺構は、殿屋敷の東側の境界に位置し、小字名は上井です。鎌倉時代の遺構は、殿屋敷遺跡の東部に中心があるようです。

2)屋敷区画と門と道路

八木城跡の城主館の範囲は、東堀、南堀、西堀の発見によって3分割されていることが判りました。

A区:堀で囲まれた中心部(南北80メートル、東西70メートル。)

B区:A区の前方部にある馬場的な空間(南北15メートル、東西70メートル。)

C区:A区の堀の外側、現在は圃場整備田(南北100メートル、東西35メートル。)

A区への進入路は御里から来る現在の(3)道路があります。この道路が当時の道路を踏襲すると考え、(3)道路と西堀との接続点に、西門が作られていると推定しました。

またB区への進入路は古市場から来る(2)道路があります。B区と南前方の国道9号線は高低差が3.8メートルあります。道路は坂道となっています。(2)道路は、B区から(2)南堀の西端の堀の途切れ部分からA区へ入ると考えます。また一方では、西堀の外側を北進して(3)道路に合流するとみられます。このため(2)南堀の西端付近に、南門が存在すると考えています。

C区南東端には(1)道路があります。古市場や四ツ井から来る(1)道路からA区への進入路も作られたと推定をしています。A区には東堀を横切って入ることになりますが、具体的な遺構は不明です。東門に相当する木橋が第12トレンチ付近にあったと推理しています。

殿屋敷遺跡全体図

                                                               殿屋敷遺跡全体図

3)A区の構造について

A区の西側から掘立柱建物と礎石建物が見つかりつつあります。少なくとも2時期の遺構が重なっていますが、まだ建物の正確な柱の配置は確認できていません。また東堀の一部では、堀を埋め立てた後に、列石・石敷き遺構を作っている場所があります。まだ断定はできませんが、庭園になる可能性があります。

越前朝倉氏が一乗谷に作った朝倉館(天正元年の1573年、滅亡)と八木館(殿屋敷)を比較すると、全体の面積は八木館の方が広いですが、A区だけでみると狭くなります。B区のような空間は、吉川元春館などには存在しますが、朝倉館では形が異なります。八木館の門の配置は、朝倉館と同様に西門、南門、東門を想定するのが妥当だと考えています。

また朝倉館では、図面上の左上部に中心建物が集中しています。八木館でも、内容は不明確ですが同じような位置で建物の痕跡が出土しつつあります。八木館の建物配置は、現状では朝倉館の建物の配置に近いのかもしれません。具体的な建物の構造の解明は、今後の調査課題です。

(注)朝倉館配置図は、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の許可を得て掲載しました。出典は『朝倉氏遺跡資料館紀要1983』「朝倉館の建築的考察」吉岡泰英

福井県朝倉遺跡の建物配置図

                                                     福井県朝倉遺跡の建物配置図

殿屋敷遺跡について

1)殿屋敷遺跡とは

八木城跡が国指定になった理由として、文化庁は「八木城跡は一連の場所に鎌倉期の館(殿屋敷)、室町期の土城、織豊期の石垣を築いた城が残っており、きわめて貴重である。また城主であった八木氏は越前朝倉氏との関係や守護山名氏との関係上重要な存在である」という解説をしています。

平成元年に殿屋敷地区のほ場整備事業に伴って発掘調査をしたところ、堀・掘立柱建物が検出され、遺物も12世紀後半から14世紀後半にかけての中国製陶磁器多数のほか和鏡、石鍋などが出土しました。こうした調査成果によって殿屋敷遺跡には、鎌倉幕府の御家人として地頭をつとめた八木泰家(第4代)の屋敷があったと推定をしました。また堀の一部が発見されたことから、この堀は八木宗頼(第12代)の屋敷の一部を区画する堀であると推定をしてきました。しかしその実態は、今回の発掘調査まで全く不明なままでした。

2)八木宗頼とは

八木宗頼は山名宗全の四天王として活躍した人物です。室町時代の寛正6(1465)年3月、将軍足利義政が開いた花見に山名宗全と二人で出席したほどの有力者です。

文明15(1483)年5月25日、八木宗頼は八木殿屋敷にいました。通常は山名宗全に従って京都の屋敷で仕事をしているからです。古文書では「八木但馬守在国、方(八木宗頼)へ貴殿(伊勢貞宗)より御太刀、光正、之を遣わされる」と書いてあります。

また宗頼が殿屋敷でよんだ歌が伝わっています。「(京の)宮古にてなか(が)めし雲ハきへはてて 花乃(の)八重立、山さくらかな」という歌です。「この歌により当今、八重立老人とめす」と書いてあります。八木の殿屋敷で隠居して生活する八木宗頼が、八木の山並みに折り重なるように咲く山桜をながめて和歌をよんだものでしよう。

足利義政の花見にも出席した八木宗頼が、八木の山桜をみながら、昔を偲んで歌をよんだものです。八木宗頼は但馬山名家を代表する和歌の宗匠でした。殿屋敷には、八木宗頼が好んで使う高楼が2棟あり、月色亭と暗香亭と呼んだといいます。今後、発掘調査でこの建物が発見されるかもしれません。

3)殿屋敷から御里屋敷への移転

殿屋敷遺跡から出土した京都系土師器

殿屋敷遺跡から出土した京都系土師器

今回の調査では、鎌倉時代の遺跡は発見できませんでしたが、西暦1500年代の前半から中頃の遺跡を発掘調査しました。八木氏は、宗頼(第12代)、貞直(第13代)、直信(第14代)、豊信(第15代)と続きます。天正8年(1580)に羽柴秀吉・羽柴秀長の但馬攻めによって但馬八木氏は滅亡します。八木豊信は羽柴秀吉の家臣となって、鳥取県の若桜鬼ヶ城に移りました。八木豊信の屋敷は、八木御里遺跡にありました。御里屋敷とよびます。

八木館は文明15(1483)から16世紀前半まで盛んに使われ、その後天正8年(1580)までの間に、殿屋敷から御里屋敷へと移転したと考えます。その時期は、出土した土師器によって16世紀前半から中頃と推定できるようになりました。移転した人物は八木直信(第14代)だと推定しています。八木直信については、天文14年(1545)、弘治3年(1557)の寄進文書が残っています。また弘治3年に書かれた「にしかた日記」にある八木は、殿屋敷の最後の姿だと推定しています。
今回の調査の大きな成果は、「八木で昔から殿屋敷といわれてきた場所に、本当に殿屋敷があった」「殿屋敷の形は、堀で囲まれた武士の屋敷である」「おそらく八木直信(第14代)の時代に殿屋敷が廃止となって御里屋敷に移転した」、このような言葉で表現できます。つまり今日までほとんど分からなかった但馬八木氏の八木館が発掘調査で出現し、歴史的な事実として確認できるようになりました。

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