堀畑1号墳の調査(石室・平成18年度)

更新日:2019年12月04日

堀畑1号墳

堀畑1号墳の石室

堀畑1号墳の石室

養父市には聖徳太子の時代に造られた多くの古墳があります。その中でも谷間地峠の付近には、6世紀から7世紀にかけて大型の古墳が造られました。その特徴は、埴輪をもつ円墳から大型の横穴式石室をもつ円墳へと変わる時代の変化点に位置していることです。
養父市教育委員会では、平成17年度から2か年計画で、堀畑1号墳の現地調査を実施しました。平成17年度は古墳の墳丘調査を行い、墳丘の裾部にめぐらした石垣状の列石や周溝を確認しました。平成18年度は横穴式石室の入口と石室内部の調査を実施しました。
堀畑1号墳は、横穴式石室の規模が但馬で第4位にくる巨石古墳だということで注目されています。墳丘規模も大きなもので、周溝の底から測った直径が40メートルもあることが分かりました。7世紀初頭を中心とした時期の古墳では、現在のところ但馬最大です。

谷間地峠の周辺には、観音塚古墳(兵庫県指定文化財)、上野1号墳などの埴輪をもつ古墳が点在しています。現在のところ養父市内では、谷間地峠の周辺だけで埴輪が集中して発見されています。堀畑1号墳をはじめ、これらの古墳は、交通の要衝である谷間地峠を掌握した但馬を代表する有力豪族のお墓と考えて間違いないでしょう。堀畑1号墳は、大薮古墳群などの大型横穴式石室をもつ古墳に埋葬された有力豪族と連携して活躍した、但馬を代表する人物のお墓です。

横穴式石室の概要

石室の内部は、奥壁天井の間から多量の土が入り石室の半分ほどが埋まっていました。奥壁側でおよそ高さ2.5メートル、入口側でおよそ高さ1.1メートルの土砂が堆積していました。平成18年度の調査では、遺跡を保護するために、石室の床面までは掘り下げないことにしました。
調査の結果、石室の規模は玄室(げんしつ)長4.7メートル、幅2.3メートル、高さ3.8メートル、石室の全長は11.7メートルになることが判りました。玄室の平面プランは長方形で、玄室の長さと幅の比が、だいたい2対1になります。また平面規模が細長い割に、床面から天井までの高さが非常に高いことが特徴です。 

  玄室の入口を玄門といいます。玄室の天井は玄門よりおよそ1.9メートル高くなっています。また袖部は高さ1.8メートルほどの石を柱のように立てて作っています。石室の入口から、通路にあたる羨道(せんどう)を通って玄室に入りますが、羨道の一番奥の天井石を一段低くすることで、玄室に入ったときにその大きさがより強調される積み方をしています。

堀畑1号石室図面

堀畑1号石室図面

石室入口前の調査風景

石室入口前の調査風景

また、玄室の天井は4.2メートルもある大きな1枚石でを使って作っています。但馬の他の古墳で、天井石に大きな1枚石を使っているものは、大薮古墳群の中にある塚山古墳だけです。天井石が大きな1枚石であることが、堀畑1号墳の石室の特徴です。
玄室は奥壁を3段、側壁については基本的に3石を3段に積んでいます。側壁にも2メートルを超すような大きな石材を使っています。また石材の一部には立石とするものもありますが、基本的に横置きして、2段目の上部で横目地を通した積み方になっています。
羨道は長さ7.0メートル、羨道の幅は玄室側が1.35メートル、入口側が2.0メートルあります。羨道と玄室の接続部が最も狭く、天井石も低くなっています。石材の積み方を観察すると、玄室とは石の使い方が異なります。石材が小形で、細長い石材を横長に用いて、横目地を通して側壁を積んでいます。

調査の際に、入口からおよそ1.7メートル入ったところの床面で、小形の石材を3段ほど積んだ石積みを確認しました。高さ50センチメートルほどしか残っていませんでしたが、石材を内側に面を揃えて並べていることから、石室を閉鎖するための閉塞石の下部であると判明しました。埋葬が終わると、石を積み上げて石室の入口を塞ぎました。閉塞石を崩した石材が、入口の前方でたくさん見つかりました。

 

石室入口付近の発掘

                石室入口付近の発掘

玄室の天井石

                  玄室の天上石

石室羨道部(北壁)

                石室羨道部(北壁)

石室羨道部

                石室羨道部(南壁)

出土遺物

石室から出土した土器の実測図

石室から出土した土器の実測図

床面の調査は、羨道の閉塞石の部分、玄室の奥壁隅角部、袖部の隅角部で部分的に行いました。その結果、玄室の床面に10センチメートルから20センチメートルほどの河原石を敷いていることが判りました。とくに奥壁側では河原石の上に玉砂利が敷いてあり、その上で須恵器の杯身(つきみ)と杯蓋(つきぶた)や鉄鏃(てつぞく)が出土しました。
須恵器は、下から杯身、杯蓋、杯身の順に伏せた状態で見つかりました。また側壁に沿って、50本程の鉄鏃が刃先(鏃身)を入口側に向けて束になった状態で出土しました。奥壁まで30センチメートルほどしか離れていません。
このほか、玄室に流れ込んだ土砂の中からたくさんの須恵器が出土しました。杯蓋や杯身、高杯といった須恵器の破片が多いのですが、このほかに土師器や鉄製の馬具(くつわ、辻金具、革金具)などがみられます。
これらの出土遺物から、古墳の築造時期はだいたい7世紀初頭と考えています。関西地方の考古学者は、大阪府の陶邑窯跡群から出土した須恵器を型式分類したものを指標として、遺跡の年代を表現しています。それではTK209型式に併行する時期のものになります。
(平成19年10月13日現地説明会資料を一部修正) 

堀畑1号墳の墳丘と石室の特徴

堀畑1号墳は東方向に開口する大型円墳で、規模は東西約40.5メートル南北約38.0メートルです。但馬で古墳時代後期に造られたこの規模の古墳は、禁裡塚古墳(東西32メートル南北35メートル)、塚山古墳(直径35メートル)、楯縫古墳(東西29メートル南北27メートル)が知られるだけです。現状では堀畑1号墳は但馬最大の大型円墳になります。今回、古墳の規模を禁裡塚古墳と比較するために、堀畑1号墳の周溝を表裏反転させて、禁裡塚古墳の測量図に書き込んでみました。表裏反転させる理由は、堀畑1号墳と禁裡塚古墳では山側と谷側の位置関係が逆転しているからです。また恣意的に図を重ねることをさけるため石室の主軸と玄室の中央部を一致させて重ねあわせました。
禁裡塚古墳の墳丘復元図と間違えるほど表面的には整合性がたかいです。第1に北側と南側の墳丘裾部がよく一致します。第2に東側では石室入口端部から東側周溝底の距離、西側では推定される墳丘裾部の位置などにいずれも大きな違和感がありません。禁裡塚古墳の発掘調査がされていない現状では、禁裡塚古墳の墳丘は堀畑1号墳と同規模で近似する形態を示すと考えます。
堀畑1号墳は、古墳時代後期の但馬最大の大型円墳です。しかしそれは禁裡塚古墳を凌ぐという意味ではなく、禁裡塚古墳と並ぶ規模の大型円墳と理解しておきます。堀畑1号墳と禁裡塚古墳の墳丘がよく類似した規模ます。と形態を持つ可能性が高いことを指摘します。

大型横穴式石室の分布について

この表は但馬における横穴式石室の規模を、玄室の体積によって順位を付けて並べたものです。体積は機械的に玄室の長さ・幅・高さを乗じたもので、石室の持ち送り等を無視した参考値であり、現実の体積よりもかなり大きくなっています。円山川に近接する地域の大型横穴式石室の分布は

(1)河口部にある風谷1号墳・ケゴヤ古墳・二見谷1号墳

(2)下流部にある楯縫古墳

(3)中流部にある禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ岡古墳・堀畑1号墳・若宮1号墳・三月野1号墳

(4)上流部にある城やぶ1号墳・迫間3号墳・金梨山8号墳などになる。

ほぼ半径3キロメートル度の範囲にまとまって4群が存在し、円山川中流部の密集度が極めてめて高くなっています。

但馬の大型横穴式石室

但馬の大型横穴式石室

この表から但馬地域における大型横穴式石室の実態を考えると、石室全長10メートル、玄室全長4.0メートル、玄室幅2.1メートル、玄室高2.50メートル、玄室床面積9平方メートル、玄室体積20立方メートルなどが大型の目安となり、この複数の条件を備える必要があります。この中で分類すると、第1群は1)禁裡塚古墳から6)西ノ岡古墳までの但馬最大規模の大型石室の一群、第2群は7)ケゴヤ古墳から16)文堂古墳までの但馬の中でも有力な大型石室の一群、第3群は17)から24)で大型の要素を部分的にもつものとなります。第3群には群集墳の中にある有力古墳で中規模の横穴式石室であるものと、大型横穴式石室と評価したいが正確なデータが備わらないものがあります。

堀畑1号墳の石室規模は、全長11.70メートル、羨道長7.1メートル、玄室長4.70メートル・幅2.30メートル・高3.80メートルを計をはかります。こうした実測値から堀畑1号墳は、但馬で第4位の大型横穴式石室であると位置づけています。但馬の大型横穴式石室の第6位までの上位に、禁裡塚古墳・塚山古墳・堀畑1号墳・西ノ岡古墳の4基が存在することは特筆される事です。

堀畑1号墳の横穴式石室の特徴

大型横穴式石室の年代観

最初に但馬における大型石室の年代観を示します。禁裡塚古墳(TK43型式併行期)→塚山古墳(TK209型式併行期)→堀畑1号墳(TK型式209併行期)・西ノ岡古墳(TK型式217併行期古段階)→こうもり塚古墳(TK型式217併行期中段階)となります。また箕谷2号墳(TK型式217併行期中段階)、箕谷3号墳(TK型式217併行期新段階)とする考えがあります(谷本進「箕谷古墳群の須恵器の編年と評価」『史跡箕谷古墳群保存整備事業報告書』八鹿町文化財調査報告書第11集1994、高松雅文「群集墳からみた地域支配」上『古代学研究』第175号2007)。
堀畑1号墳の横穴式石室は、塚山古墳と親密な共通性をもつ同規模同形の石室と評価されています。これと類似する石室に楯縫古墳があります。これに対して西ノ岡古墳は、塚山古墳を祖型とするが石室高が低下して小型化傾向を示しています。つまり塚山古墳タイプとみられる但馬の大型横穴式石室には、塚山古墳→(同規模同形)→堀畑1号墳・楯縫古墳→(天井高の低下)→西ノ岡古墳が存在する指摘されています(谷本進「但馬における大型横穴式石室」『但馬考古学』第10集1998但馬考古学研究会)。

塚山古墳と堀畑1号墳

こうした研究をうけて塚山古墳と堀畑1号墳の類似性について改めて考えてみます。両者を同じ縮尺で並べると、共通した配石方法玄室が認められます。玄室が側壁基底石3石・3段積、羨道が側壁4段積、奥壁が基底石2石・3段積、玄門部が2石積、玄室天井が大型石材1枚構成などです。
しかし細かくみると相違い点もあります。(1)玄室側壁が堀畑1号墳は3段であるのに対して塚山古墳では玄室の両側壁・前壁の3段目と天井石の間に小形石材が入る。(2)袖部が堀畑1号墳に比べて塚山古墳は明瞭に内部に張り出す。(3)奥壁・玄門部の実測図を比較してみると堀畑1号墳に比べて塚山古墳の石室幅はやや広い。(4)堀畑1号墳の石材は割石のように稜線が鋭い石材が多く、塚山古墳は稜線が丸みをもつ石材が多い。こうした点から堀畑1号墳の石室は塚山古墳の石室に比べて時期的に少し新しいと考えられています。そして堀畑1号墳の石室は、塚山古墳の石室設計図を利用して造られたと考えられています。

堀畑1号墳と塚山古墳を同じ縮尺で並べ、玄室幅(249センチメートル・特定値X)を基準として石室平面に方眼を記入し、石室側面には垂直軸を入れて検討しました。この結果、玄室幅に対して玄室長は2倍を示し、羨道長は3倍と考えられます(羨道部の先端部位置の判断が微妙)。また堀畑1号墳羨道部はハの字に開き、羨道部平面の石室側壁プランの延長が(5)区画の外端部の隅角部に交わります。また天井部は玄室天井長と羨道天井長が同じ距離で1対1で対応します。
石室側面および奥壁の水平軸は、玄室高(356センチメートル・特定値Y)を基準としてその中間178センチメートル水平線を入れて検討しました。見上げ石の天井高が玄室高の二分の一に位置しています。堀畑1号墳では奥壁基底石、玄室基底石、立柱石、羨道側壁を4段積み(下部は未発掘)とみた場合の3段目に、玄室高の2分の1の高さで示した水平線が位置しています。

和田晴吾氏は高麗尺(35.6センチメートル)と唐尺(29.7センチメートル)による石室構築を積極的に肯定し、禁裡塚古墳は玄室幅8尺・玄室長17尺、西ノ岡古墳と楯縫古墳は玄室幅7尺・玄室長15尺と示しています(「群集墳と終末期古墳」『新版古代の日本』近畿1992角川書店)。こうした高麗尺の使用説を理解し、特定値Xの249センチメートルを7尺、特定値Yの356センチメートルを10尺とみなしています。
以上のような検討により堀畑1号墳と塚山古墳は、同規模で配石方法もよく一致する設計プランであることが判明しました。塚山古墳の石室プランが経年変化によって石材が動いて乱れていることから、両者の共通点と保存状態のよい堀畑1号墳石室の検討結果を交えて石室の構築方法を提示します。

(1)玄室側壁は基底石3石・奥壁は2石・立柱石1石・羨道は基底石4石ないし5石を設置する。玄室は1段、側壁は3段積む。玄室幅に対して玄室長は2倍、羨道は3倍、羨道基外端部は玄室幅と同じ幅としハの字に直線的に開く。(2)玄門部の天井石を玄室天井高の2分の1になるよう設置する。(3)玄室側壁・奥壁・羨道側壁の上段を積む。(4)羨道部天井石を見上げ石側から2石を構築する。前壁の2段目を積む。天井部の玄室長と羨道長は距離を同じに設計する。(5)玄室天井部の大型石材を1石で積む。

堀畑1号墳(下)と塚山古墳(上)の比較

堀畑1号墳(下)と塚山古墳(上)の比較

堀畑1号墳の特徴

堀畑1号墳の横穴式石室は次の2点において他の石室にはない重要な価値があります。第1に塚山古墳とともに但馬の大型横穴式石室の成立と展開を考える上で基準資料となることです。第2に大和における大型横穴式石室の構築技術が、直接的に但馬に導入される具体的方法を検討する基準資料になることです。

堀畑1号墳の石室

堀畑1号墳の石室

禁裡塚古墳・塚山古墳・堀畑1号墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳は、いずれも石室の入口を東方向に開いて、一連の石室構築技術に立脚して造られています。禁裡塚古墳・塚山古墳・こうもり塚古墳は兆域にあたる空間を備えていることが指摘されています(泉森皎「大和の主要横穴式石室探訪」『徹底討論大薮古墳群』1984養父町教育委員会)。堀畑1号墳も同じような兆域を伴うと評価しています。
但馬で群集墳が盛行し中小規模の横穴式石室が多く造られるのは、塚山古墳・堀畑1号墳・西ノ岡古墳が造られる時期ではなく、こうもり塚古墳・箕谷2号墳が造られる時期です(高松雅文「群集墳からみた地域支配」上『古代学研究』第175号2007)。大型横穴式石室である西ノ岡古墳が7世紀前半で造られなくなります。これはヤマト政権が大型横穴式石室を造る但馬の在地首長が広域的に支配する力を弱め、但馬の有力家長層を直接的に把握する傾向が強化したこと示すものだという指摘があります(高松雅文「群集墳からみた地域支配」下『古代学研究』第176号2008)。但馬の大型横穴式石室は、但馬で群集墳が盛行する直前の時期までに造られた特別な横穴式石室であると評価しています。

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