八木・御里遺跡の調査(平成17年度)

更新日:2019年12月04日

御里遺跡

御里遺跡

御里遺跡

八鹿町八木の御里遺跡で飛石を伴う敷石遺構を発見しました。茶室などのある庭に作られる路地の「飛石」と考えられる遺構で、縦28センチメートル、横35センチメートルの平坦な石材が50センチメートルの間隔で7石が並んで出土しました。全国的にも珍しい発見です。

中国製の碗(青花磁器)をはじめ16世紀後半の遺物が出土しました。天正年間を中心とする時期のもので、豊臣秀吉から天正13年(1585)に八木城主を命じられ、養父市内で1万2千石の領地を与えられた別所重棟に関係する遺構と思われます。御里遺跡は、平成9年3月6日に国史跡に指定された八木城跡の、豊臣期の城主館であることを示す有力な資料になります。

調査地の位置

御里遺跡調査地(北から)

御里遺跡調査地(北から)

御里遺跡は、北から南方向に下がっていく三段の造成地から成り立っています。標高112メートル付近にある上段、標高107メートル付近にある中段、標高103メートル付近にある下段の3段です。平成12年度の第3次調査によって、下段で重要な遺構を発見しました。大形井戸のほか、敷石や水路を伴う石組み遺構、さらには幅が3間(5.45メートル)を計る石敷きの道路遺構を検出しました。道路遺構は遺跡の中心部を南北に貫くため大手道遺構とも仮称しました。天正年間と考えられる土器類が、多く出土しました。
今回の第8次の調査は、御里遺跡の上段の中央部の山際の位置になります。城主館の中心部の一角にあたる部分です。さらに3間幅の道路遺構の主軸を北に伸ばした場合の正面の突き当たり付近にあたります。
調査は第1トレンチ・第2トレンチ・第3トレンチの3箇所で実施しました。調査面積は全体で約110平方メートルです。

第2トレンチ

第2トレンチ全景

第2トレンチ全景

第2トレンチは南北7.4メートル、東西4.9メートルのトレンチで、最後に南側の一部を1メートル拡張しました。調査面積は約36平方メートルです。地下約60センチメートルほど掘り下げたトレンチの南側で飛石を伴う敷石遺構を確認し、北側で建物土台の葛石の可能性を考える列石遺構を確認しました。
飛石を伴う敷石遺構は、焼土と炭の混じる土を整地層した上に作られています。また列石遺構の整地面は、その土を被覆するための黄褐色土で覆って作られています。部分的な深掘りでは、列石遺構の下層に礎石のような平坦な石材が存在することを確認しました。

敷石遺構

第2トレンチ飛石遺構(南西から)

第2トレンチ飛石遺構(南西から)

敷石遺構は、トレンチの南西部で、L字形に直角にまがる北東の角を中心とした2辺を発見しました。南北3.2メートル(東辺)、東西3.5メートル(北辺)の2辺で、トレンチの西側と南側に遺構がのびるため全体の規模は分かりません。東辺は、40センチメートルほどの大型の川原石を南北方向に並べていました。北辺は、畑の耕作などで既にぬきとられており、川原石はありませんでした。つまり敷石遺構は、40センチメートルから30センチメートルの石材を周囲に置いて四角形に囲んだ中に、3センチメートルほどから握り拳8センチメートル程度の山石(角礫)を敷きつめた遺構だと推定しています。そしてその中に飛石が配置されました。 

飛石について

飛石は、敷石遺構の北東の隅角部から、南西の隅角部と思われる方向に向かって対角線にのびています。検出した飛石の延長は約3.9メートルで、調査区の外に続いています。石材は30センチメートル程度の大きさの扁平な自然石(円礫)5個と、扁平な自然石(角礫)2個を使用していました。しかし1石は抜き取られており、全部で8石相当分にあたります。飛石は直線的に標高をそろえて並んで、約50センチメートル間隔で規則的に配置されています。

第2トレンチ平面図

                                                                 第2トレンチ平面図

列石遺構

第2トレンチ列石遺構

第2トレンチ列石遺構

敷石遺構から約270センチメートル北側の位置に、30センチメートル程度の石材7石の列石が出土しました。これより北側が、列石の高さ分、一段高く造成されています。

出土遺物

16世紀後半に属する瀬戸・美濃陶器の皿、中国製青花磁器の碗、備前焼の擂り鉢などがあります。中国製青花磁器には5.5センチメートル程の底部の破片があります。碗の内面の底部の中央部(見込み)には中国人物像を描き、底部の外面には青の文字を書いています。

青花磁器(内側・外側)

青花磁器(内側・外側)

青花磁器(内側・外側)

青花磁器(内側・外側)

白磁皿(内側・外側)

白磁皿(内側・外側)

磁器実測図

磁器実測図

小結

飛石を伴う敷石遺構は、焼土や炭を整地した土層の上に作られています。こうした焼土や炭を伴う整地層の在り方は、この調査区から25メートル東に位置する第7次調査の第2トレンチでも確認しました。畑の開墾で石材は散乱していましたが、角礫を伴う遺構が作られたと考えてよいでしょう。つまり焼土や炭を伴う整地層と、石材を利用した遺構が、この調査区を中心に広がることは確実です。飛石は茶室などのある庭に作られる路地で、全国的にも珍しい発見です。

第3トレンチ

  第3トレンチは、南北6.4メートル、東西2.7メートルのトレンチです。南側で幅0.9メートル、長さ2.2メートルのトレンチで第2トレンチと続いています。調査面積は約19平方メートルです。16世紀後半と推定する遺構は、トレンチの南側で検出した南北方向の3石の列石遺構です。第2トレンチの列石遺構とは50センチメートルの高低差があります。つまり第3トレンチは第2トレンチ北部とは、50センチメートル高い別の整地面が広がると判明しました。

第3トレンチ全景

    第3トレンチ全景(南から)

第3トレンチ列石遺構

      第3トレンチ 列石遺構

第1トレンチ

第1トレンチ全景(東から)

第1トレンチ全景(東から)

第1トレンチはL字形のトレンチで、約56平方メートルを調査しました。トレンチの規模は、東西方向が長さ11.5メートル、幅4.0メートルで、南北方向が長さ9.2メートル、幅2.0メートルです。東西方向のトレンチの東隅で直角に北側に折れるL字形のトレンチです。16世紀後半と推定する遺構は、第2トレンチに近いトレンチの東部で発見しました。

第1トレンチ東部平面・断面図

第1トレンチ東部平面・断面図

A区(北部)

第1トレンチA区

第1トレンチA区

調査地の北端に位置し、最も下側の遺構まで掘削しました。黄褐色の地山をほりこんだ素掘りの溝を検出しました。幅12メートル、深さ0.5メートルの規模で、北から南に流れる溝です。溝の埋土には、焼土や炭が混じっていました。16世紀後半の八木豊信段階までの城主館を区画した溝の一部と推定しています。

B区・E区(東部)

B区はA区の南に続く部分で、5センチメートルから25センチメートル程度の角礫が散乱する状態を確認しました。A区でも同じような石材を確認しましたが、取り除いて下層まで掘り下げました。
E区はB区の2メートル南側です。幅20センチメートル、長さ2.0メートルの石組によって作られた、東西方向の石組みの溝を検出しました。約20センチメートルの自然石を横方向に2段に積んでいます。石組溝の外側には5センチメートルから15センチメートル程度の角礫が置かれています。これらの石材は、軟弱な生活面の土壌を固めるために置かれた石材と、その排水施設の一部であると考えられます。こうした石材を利用した生活面の形成は、第2トレンチの敷石遺構と同じ性質をもちます。さらに検出面がいずれも標高112メートル付近にあることから、両者は、同時期の関連した遺構で、別所重棟段階のものであると推定しています。

第1トレンチ東部(南から)

第1トレンチ東部(南から)

第1トレンチE区溝遺構

第1トレンチE区溝遺構

まとめ

第2トレンチ飛石遺構

第2トレンチ飛石遺構

飛石の役割

第2トレンチで発見した遺構は、石材の設置状況から考えて飛石で間違いないと思います。このため付近に茶室などの建造物が建築されたと推定していますが、茶室等の存在を裏付ける礎石などの遺構やお茶に関係する遺物は発見できていません。
飛石の著名な発掘事例は、肥前名護屋城の山里曲輪にあります。豊臣秀吉が天正19年に築城を開始して慶長3年まで利用し、文禄慶長の役における秀吉の本陣として利用された城郭です。茶室跡の礎石とそれに至る飛石が発見されています。28石の飛石が14メートルにわたって整然と検出されています。50センチメートル間隔で自然石を置いています。飛石の間隔などは御里遺跡と共通していますが、肥前名護屋城では敷石遺構を伴っていません。

第2トレンチ敷石遺構

第2トレンチ敷石遺構

焦土と炭を伴う整地層

飛石などをもつ敷地の生活面が、焼土や炭をともなった整地層の上に作られています。この整地層の中から16世紀後半の中国製の青花磁器が出土しました。16世紀後半の中で、御里遺跡で大規模な焼土や炭がおこりうる契機は、永禄12年(1569)の八木豊信に対する羽柴秀吉の但馬攻め、天正5年(1577)の八木豊信に対する羽柴秀長の第1次但馬攻め、天正8年(1580)の八木豊信に対する羽柴秀長の第2次但馬攻め、天正13年(1585)の別所重棟による八木城への入城に伴う建物の改築、慶長5年(1600)の別所吉治の改易に伴う八木城の退去と跡地利用に伴う改築、などが考えられます。
焼土を伴う整地層が必要となる年代は、天正8年ないし天正13年の可能性が高いと考えます。つまり16世紀後半の中で飛石遺構をもつ建物が必要な歴史的な状況は、別所重棟の八木城への入城の可能性が最も高いと理解しています。

別所重宗の居館跡

八木城本丸の石垣

八木城本丸の石垣

今回の調査で出土した飛石の遺構は、養父市の中で天正13年に豊臣秀吉から12,000石の領地を与えられた別所重棟、ならびに天正19年に跡をついだ別所吉治(15,000 石に加増、慶長5年の関ヶ原の合戦で廃城)が利用したものと推定しました。
豊臣大名である別所重棟・吉治の生活した城主館や八木城跡の構造を解明する上で、貴重な発見になります。「豊臣大名によるお茶の文化」が各地に広がった結果、茶室をもつ庭が大名の必需品になったと推測しています。

1飛石『和田山町の庭園』より

庭園内の通路に、平天で円形に近い石を配したもので、最初、桃山時代に起こった茶庭に用いられたが、以後一般の庭園にも用いられるようになった。飛石は歩きやすいことが一番であるが、同時に景としても美しいものが要求される。

2別所重棟(重宗・しげむね)

天正8年正月、羽柴秀吉による三木城合戦で滅ぼされた三木城主の別所長治の叔父にあたる。別所重棟は毛利方に与することなく、一貫して織田方に属した。福島正則(関ヶ原の合戦の後、広島城主で49万石)の姉を妻としている。子の正之は福島正則の養子となっている。秀吉の武将前野長康に属した。天正13年に前野長康が出石城主になることを契機に、豊臣秀吉から前野の補佐役(付将)として八木城主となり、養父市で12,000石をもつ大名に取り立てられた

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