まちの文化財(146) 測量技師の島田道生

更新日:2019年11月14日

島田道生氏

島田道生氏

島田が使用した三角定規

愛用した三角定規

 

平成28年11月6日八鹿文化祭で「特別展北垣国道と島田道生、ふるさと文化再発見・郷土の生んだ先人」が開催されました。

明治政府は、日本の近代化を推進するため大規模な土木工事を全国各地で行いました。そのためには近代的な土木測量技術が必要でした。測量技師島田道生は北垣国道と共に多くの国家プロジエクトを推進しました。

島田道生は養父市八鹿町下町の島田家に誕生し、幼名を菅蔵といいました。弘化元年(1844)に生まれ、大正14年(1925)に81歳で没し、八鹿の諏訪墓地に埋葬されました。弘化元年に北垣国道は8歳、八鹿の立誠舎で池田草庵に学んでいた時期になります。

明治5年北垣国道が北海道開拓使に勤務していた時、27歳の島田道生は北垣の推薦によって、開拓使仮学校(後の札幌農学校)の1期生として入学しました。その時、島田は入学年齢上限の22歳と偽って入学しました。そこでライマンに図学と測量術を学び、開拓使測量部長デーに随って精密な測量を習得しました。ライマンは石炭などの鉱山を探す御雇外国人として地質調査を行い、日本の鉱山開発の恩人と称される人物です。

北垣国道は熊本県大参事、高知県令、京都府知事や北海道庁長官になりますが、そこには常に測量技師の島田道生がいました。

京都府では明治19年(1886)、琵琶湖疏水を建設する疏水事務所測量部長となって活躍しました。三角測量の積算値は、現在の測量技術と同じ極めて高い精度でした。京都宮津間車道開鑿工事、舞鶴鎮守府(日本海軍の拠点軍港)の建設工事等の測量も実施しています。

明治26年には内閣総理大臣伊藤博文から北海道庁技師に任命されました。北海道では鉄道や湾港の建設のための測量を進めました。島田道生は、日本の近代的な土木測量の第一人者です。

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