養蚕の神様上垣守国

更新日:2022年06月01日

上垣守国、宝暦3年(1753)から文化5年(1808)

上垣守国は、明和7年(1770)18歳から先進地であった陸奥国伊達郡福島に行き、蚕種を持ち帰って蚕種改良に尽力しました。寛政9年(1797)の記録では、伊達郡伏黒村藤屋佐藤与惣左衛門家で103枚の蚕種を仕入れ、代金は金9両50文を支払っています。天明3年からは蔵垣村の庄屋を務めました。このため蚕種の買い付けは弟の上垣宇右衛門に任せました。そして享和3年(1803)、48歳の時に養蚕秘録という養蚕の技術書を出版しました。

養蚕記念館では、上垣守国の業績をたたえて養蚕秘録や上垣守国が使用した煙草入れ、矢立などを展示しています。また珍しいものに鯨魚石があります。寛政8年上垣守国が筏村で採集しました。石材に、寛政八歳、仙栄堂主人守国、筏邑の催壌山の下で拾得と刻んでいます。これは長さ21センチメートル、幅4.5センチメートルの石材で、弥生時代に朝鮮半島から伝わった抉入柱状石斧(えぐりいりちゅうじょうせきふ)です。但馬地方では未だに同種のものは発見されていません。上垣守国は但馬で最初に古代の遺物を採集した考古学の先駆者でもあります。

上垣守国のお墓は蔵垣下の山裾の墓地の中にあります。文政4年2月に建てられました。墓石の正面に「上垣守國墓」と書いてあります。そして側面や後面には守国の業績が刻まれています。墓石の上には唐破風付の屋根を形どった石材が置かれています。ここからは、天滝の上側の水が見えます。戒名は随真院桑誉聞廣度居士と言います。養蚕の誉れ高い人という意味です。

守国が発掘した鯨魚石

守国が発掘した鯨魚石

上垣守国翁の墓所

上垣守国翁の墓所

上垣守国の年表

養蚕秘録

養蚕秘録は、上垣守国が享和3年(1803)に発刊した上中下の3巻の養蚕技術書です。全部83丁あります。上巻で養蚕の起源を述べ、蚕名、蚕種、栽桑、蚕飼道具を図解し、中巻では養蚕の実務を述べ、孵化、掃立、給桑、上族、繰糸などの全般を解説し、下巻では真綿製法、養蚕の話題を書いて、和漢の古書25点を引用しました。当時は文字が読めない人も多いため、大きな挿図を多数入れて、図を見るだけで養蚕が学べるようにしました。出石藩の儒学者桜井篤忠の手助けによって、江戸・大阪・京都の書林から刊行されました。

文政12年(1829)、オランダ東インド会社のシーボルトは、養蚕秘録を日本からオランダに持ち帰りました。フランス政府は、オランダ王室通訳官ホフマンにフランス語訳を命じ、嘉永元年(1848)にパリとトリノで農業技術書として出版しました。日本文化輸出第1号であると評価されています。日本国内でも、明治20年(1887)代まで80年以上にわたって出版され続けました。

養蚕秘録「蚕棚の図」

養蚕秘録「蚕棚の図」

養蚕秘録「守国、採桑口授の図」

養蚕秘録「守国、採桑口授の図」

宝幢寺にある上垣守国の紀蹟碑

宝幢寺にある紀蹟碑

宝幢寺にある紀蹟碑

明治40年(1907)10月10日、上垣守国没後百年を記念した上垣守国翁百年祭が、蔵垣にある菩提寺宝幢寺において開催されました。養父郡長小林正義が発揮人代表となって、県立蚕業学校長藤島盈文、県養蚕技師山崎粂蔵らが企画しました。当日は1000人を越す人々が集まりました。養父郡内から募金を募って郷土の偉人である上垣守国の業績を偲び、上垣守国の業績を讃える紀蹟碑を建立しました。上垣守国の紀蹟碑は、出石の桜井勉氏の撰文、紀蹟碑の題字は兵庫県知事服部一三氏によって明治42年10月に宝幢寺に完成しました。

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