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まちの文化財(115) 八木城跡と別所重棟
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まちの文化財(1) 別宮のオキナグサ
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まちの文化財(3) 広谷の造り物
まちの文化財(4) 朝倉氏と朝倉城
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まちの文化財(7) 馬瀬奥ヶ口1号墳
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まちの文化財(10) 樽見の大ザクラ
まちの文化財(11) 鉢伏高原のミツガシワ
まちの文化財(12) 禁裏塚古墳
まちの文化財(13) 3階建ての養蚕農家
まちの文化財(14) 八鹿の造り物
まちの文化財(15) 中瀬金山の山臼
まちの文化財(16) 堀畑1号墳
まちの文化財(17) 八鹿駅の跨線橋
まちの文化財(18) 加保村の藤堂高虎
まちの文化財(19) 尾原の国道改修記念碑
まちの文化財(20) 浅野の宝筺印塔と五輪塔
まちの文化財(21) 加保坂のミズバショウ
まちの文化財(22) 八木城跡
まちの文化財(23) 三宅の大仏
まちの文化財(24) 建屋ウスギ城
まちの文化財(25) 天滝と轟火山
まちの文化財(26) 養蚕農家住宅の調査
まちの文化財(27) 氷ノ山山頂
まちの文化財(28) 青谿書院と池田草庵
まちの文化財(29) 広谷町の楽市
まちの文化財(30) 二宮神社の本殿
まちの文化財(31) 尾崎天王山城跡
まちの文化財(32) 祐徳寺の障壁画
まちの文化財(33) 今滝寺の弁才天像
まちの文化財(34) 加保坂のミズバショウ古墳
まちの文化財(35) 小城の大庄屋記念館
まちの文化財(36) 米地峠の駕籠置き石
まちの文化財(37) 八鹿能舞台
まちの文化財(38) 別宮の大カツラ
まちの文化財(39) 養父市のコウノトリ
まちの文化財(40) 高柳ナベ遺跡の発掘調査
まちの文化財(41) 両松寺の梵鐘
まちの文化財(42) 丹戸のキャラボク
まちの文化財(43) 山路寺の障壁画
まちの文化財(44) 福王寺の阿弥陀如来立像
まちの文化財(45) 蔵垣上森神社の森
まちの文化財(46) 養父駅開業100周年
まちの文化財(47) 葛畑の農村歌舞伎舞台
まちの文化財(48) 3階建養蚕農家を探る
まちの文化財(49) 養父のネッテイ相撲
まちの文化財(50) 八木城跡国指定10周年
まちの文化財(51) 建屋のヒダリマキガヤ
まちの文化財(52) 市立山田風太郎記念館
まちの文化財(53) 井垣城跡
まちの文化財(54) 伊佐の新田開発
まちの文化財(55) 蔵垣かいこの里
まちの文化財(56) おりゅう柳の伝説
まちの文化財(57) 氷ノ山登山口多田ケルン
まちの文化財(58) 大徳山はなぜ大徳山
まちの文化財(59) 斎神社の豪雨災害
まちの文化財(60) 宮本区に密集する城郭
まちの文化財(61) 九鹿ざんざか踊り
まちの文化財(62) 大薮の歴史を訪ねて
まちの文化財(63) 関神社と中井権次
まちの文化財(64) 伝説の琴弾峠
まちの文化財(65) 養父神社本殿
まちの文化財(66) 堀畑1号墳
まちの文化財(67) 斎神社本殿の修理見学会
まちの文化財(68) 図説養父市城郭事典
まちの文化財(69) 明延鉱山探検坑道
まちの文化財(70) 名草神社の国指定
まちの文化財(71) 口大屋の大アベマキ
まちの文化財(72) 斎神社摂社の県登録
まちの文化財(73) 大屋ニッケル鉱山
まちの文化財(74) 池田草庵の立誠舎
まちの文化財(75) 別宮という地名
まちの文化財(76) シラカシ大木が倒木
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まちの文化財(78) うだつが上がる3階建
まちの文化財(79) 大薮の塚山古墳
まちの文化財(80) 赤松広秀の供養塔
まちの文化財(81) 宗祇法師の句碑
まちの文化財(82) 一円電車は走る
まちの文化財(83) 米里薬師堂
まちの文化財(84) 太田垣猶川の敬忠舎
まちの文化財(85) 山路の郷蔵
まちの文化財(86) 徳川家康と朝倉山椒
まちの文化財(87) 日本最古の辰年文字
まちの文化財(88) 耳堂のお地蔵さん
まちの文化財(89) 山陰義塾の石碑
まちの文化財(90) 満福寺の観音堂
まちの文化財(91) 鉄屋米地と鋳物師
まちの文化財(92) 別宮家野遺跡
まちの文化財(93) 中瀬金山と佐渡金山
まちの文化財(94) 加保坂のヒスイ原石
まちの文化財(95) 若杉ざんざか踊り
まちの文化財(96) 養父という地名
まちの文化財(97) 吉井の井上神社
まちの文化財(98) 伊佐のこうのとり
まちの文化財(99) 男爵、北垣国道
まちの文化財(100) 八鹿道路元票
まちの文化財(101) 大塚という地名
まちの文化財(102) 今滝寺の金剛力士立像
まちの文化財(103) 氷ノ山の地蔵堂
まちの文化財(104) 大屋市場の日枝神社
まちの文化財(105) 宿南の掃部狼婦物語
まちの文化財(106) 高柳小学校の創立
まちの文化財(107) 大杉ざんざこ踊り
まちの文化財(108) 生野義挙
まちの文化財(109) 大久保神社の彫刻
まちの文化財(110) 円光寺の襖絵
まちの文化財(111) 天正5年小田野の合戦
まちの文化財(112) まいそう祭り
まちの文化財(113) 養父市場にある領境石
まちの文化財(114) 三宅タイコ山古墳
まちの文化財(115) 八木城跡と別所重棟
まちの文化財(116) 徳本上人とお念仏
まちの文化財(117) 上垣守国と養蚕秘録
まちの文化財(118) 浅間寺の十二神将立像
まちの文化財(119) 大谷稲生神社
まちの文化財(120) 鉢高原遺跡の耳飾り
まちの文化財(121) 養父の太郎左衛門
まちの文化財(122) 小出家の大薮陣屋
まちの文化財(123) 羽山の里という地名
まちの文化財(124) 宿南広瀬古墳群
まちの文化財(125) 国木とが山古墳群
まちの文化財(126) 杉ケ沢高原
まちの文化財(127) 二宮金次郎の像
まちの文化財(128) 若杉の不動滝
まちの文化財(129) 今滝の不動滝
まちの文化財(130) 中瀬鉱山の機関車
まちの文化財(131) 念仏行者の是得上人
まちの文化財(132) 片岡城跡
まちの文化財(133) 殿屋敷遺跡の石垣
まちの文化財(134) 徳川将軍の奥医師長島氏
まちの文化財(135) 名草神社の四猿彫刻
まちの文化財(136) 小路頃才ノ木遺跡
まちの文化財(137) 古屋の小倉寛一郎
まちの文化財(138) 別宮の大カツラ
まちの文化財(139) お走り祭り
まちの文化財(140) 伊佐小学校と湯川秀樹
まちの文化財(141) 満福寺の柿本人麻呂像
まちの文化財(142) 小佐の赤米づくり
まちの文化財(143) 三宅の万灯
まちの文化財(144) 田和城と藤堂高虎
まちの文化財(145) 日本の石
まちの文化財(146) 測量技師の島田道生
まちの文化財(147) 高柳小学校の滑空機
まちの文化財(148) グンゼ八鹿工場
まちの文化財(149) 八鹿小学校の校訓
まちの文化財(150) 小野山鉄蔵翁の石碑
まちの文化財(151) 日本画家の斎藤畸庵
まちの文化財(152) 播但を貫く日本遺産
まちの文化財(153) 上小田の柳神社
まちの文化財(154) 大屋市場の村絵図
まちの文化財(155) 大杉地区の養蚕集落
まちの文化財(156) 青山の大蔵神社
まちの文化財(157) 大薮の泉光寺
まちの文化財(158) 但馬のイヌワシ
まちの文化財(159) 養父市の狛犬
まちの文化財(160) 安井の大草履
まちの文化財(161) 青谿書院のモミの木
まちの文化財(162) 村岡藩と山名の殿様
まちの文化財(163) 樽見の大ザクラ治療
まちの文化財(164) 果樹栽培の田村亮一
まちの文化財(165) 桂小五郎と西念寺
まちの文化財(166) 豊受社と松田源治
まちの文化財(167) 兵庫県最大の豊受社
まちの文化財(168) 兵庫県立蚕業学校
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まちの文化財(170) 葛畑の舞台修理
まちの文化財(171) 関神社の大カヤ
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まちの文化財(115) 八木城跡と別所重棟
長方形の割石を使った石垣 八木城跡にある高い石垣
NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」に、養父市に関わる人物が登場しています。それは三木城主別所長治の叔父として登場する別所重棟(しげむね)です。別所重棟は天正13年(1585)、羽柴秀吉から1万5千石を与えられて、八木城主となった人物です。
当初、三木城主別所長治は、織田信長と同盟していましたが離反し、天正6年、織田家と敵対する毛利家に味方します。しかし別所重棟は織田信長の味方を続け、羽柴秀吉や黒田官兵衛とともに三木城攻めに参加しました。
別所重棟は、福島正則の姉と結婚しました。福島正則が豊臣秀吉のいとこにあたる関係から、別所重棟も豊臣家の親戚となりました。天正19年、別所重棟の息子である別所吉治(よしはる)が八木城主を継ぎました。吉治の「吉」は、秀吉から一字を譲り受けたものでしょう。
別所重棟が生活した城主館(じょうしゅやかた)跡が下八木にある御里(おさと)遺跡です。御里遺跡では、庭園遺構や大手道遺構のほか、天目茶碗や中国製の磁器が見つかっています。
それでは誰が、いつ、八木城の石垣を築いたのでしょうか。それは別所吉治です。
石垣の隅角部(ぐうかくぶ)の積み方が算木(さんぎ)積みという完成度の高いものであること、岩から石垣に使う石材を切り出すために矢穴を刻んだ石材が多数存在することなどによって、石垣の構築年代は慶長初期と判断しています。
慶長5年(1600)におこった関ヶ原の合戦で、八木城主別所吉治は徳川家康に敵対しました。このため八木城は廃城となりました。しかし別所吉治は許されて、丹波市氷上町の北由良に陣屋を置き、2万石の領地を治めました。八木城の本丸石垣は、豊臣大名となった別所家の足跡を示すシンボルでもあります。
お問合わせ先
教育委員会
社会教育課
所在地/〒667-0198養父市広谷250-1
電話番号/
079-664-1628
079-664-1628
FAX/079-664-1147 E-mail/
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