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まちの文化財(41) 両松寺の梵鐘

まちの文化財(41) 両松寺の梵鐘
 


            両松寺の前庭にある鐘楼               豊臣秀吉の時代につくられた明延銀山の梵鐘

但馬には江戸幕府が直接支配した生野銀山・明延銅山・中瀬金山という有名な鉱山があります。江戸時代から但馬三山と呼ばれた日本有数の鉱山です。中でも明延鉱山は、明治42年に錫鉱脈が発見され、最盛期には国内の錫の90%以上を産出しました。昭和56年の出鉱量は月に25千トンもあり、作業人員は348人でした。昭和62年に外国為替の円高のために錫鉱脈を残しながら閉山しました。
この時代に作られた梵鐘が明延の両松寺にあります。梵鐘の銘文には、「但州養父郡大屋庄明延銀山」「当所繁留以立願、奉鋳者成」「文禄五丙申菊月」などの文字があります。梵鐘の大きさは、高さ約110cm、口径約85cmです。養父市では最も古い重要な梵鐘になります。 文禄5年は西暦1586年で、豊臣秀吉から任命された八木城主の別所吉治が、秀吉の代官として明延銀山を支配していました。
明延鉱山はもともと銅や銀を多く産出しました。江戸時代の古文書があります。但播州諸山其外旧記には、明延は「別所豊後守領分にて候」、慶長5年(1600)「より生野奉行間宮新左衛門支配なられ」「それより弐十枚間歩、谷床間歩、金木谷、白岩、諸所に銀山出来す」と記録しています。
また元禄12年(1699)の御公用覚書には、「養父郡明延銅山、大同元年(806)にはじまりしよし」「明延町、長さ四町半(490m)・横壱町(109m)、家数六拾七軒」「明延町、加棒六郎兵衛」と記録されています。
加棒という名称は、生野・明延・中瀬の三つの鉱山町の町名主に許された特別の名称です。慶長19年(1614)に始まる大坂の陣に、生野奉行間宮氏の配下として鉱山労働者を引き連れて出陣し、大坂城の堀の下に坑道を掘って城を攻めました。徳川家康は功績を認め、奉行に加えるという意味をもつ加棒の名称を恩賞として与えました。但馬の鉱山に特有の名称です。
明延鉱山は秀吉・家康の時代から昭和まで、銀山から銅山へ、さらに錫山として400年間も繁栄してきました。現在も坑道は、明延鉱山探検坑道として活用されています。明延自然学校に申し込めば見学ができます。

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