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まちの文化財(29) 広谷町の楽市

まちの文化財(29) 広谷町の楽市

        広谷町の東西方向の直線道路               広谷町の南北方向の直線道路


楽市令というのは織田信長や戦国大名が新設の城下町や地方市場に出した法令のことです。課税を免除し自由交易を保証しました。
広谷町の楽市令は、天正13年(1585)に羽柴秀吉から出石城主を命じられた前野長康が、この年に出したものです。「当町諸職前々の如くたるべき事」「諸公事免除の事」「をし買い押し売り(有るまじく)事」を厳命しています。この権利は、歴代の出石城主によって明治維新まで280年間も認められました。
昭和に入ってからの広谷町の市は、8月9日と12月24日の年に2回開かれ、昭和17年ごろまで続きました。宝永3年(1706)の文書に「以前は一ケ月に六日宛の市立ち申し候へ共」と書いてあることから、江戸初期までは1ケ月に6日の市がたつ六斎市だったようです。
現在の広谷町は、元和元年(1615)、出石城主に就任した小出吉英(よしふさ)が人工的な都市として新たに移転整備した町です。
上箇方向から入ってくると、道路が直角に西に曲がって進み、さらにもう一度直角に南に曲がります。竹田の城下町と同じように道路は直角に何度も折れ曲がって進みます。道路の距離は南北200間(370m)、東西90間(160m)ほとです。道路の幅は2間半(4.5m)でしたが、享保2年(1771)に広谷町で大火があり、4間(7.2m)に拡張されました。町内は上町・中町・下町と呼びました。
広谷小学校の校舎が建っている付近には古町という地名があります。移転する前の広谷市場がここにあったのです。大屋川の氾濫源の中にある自然堤防とよばれる場所にあたります。中世に市場が作られる代表的な立地です。古町から現在の広谷町への移転は、中世から近世への都市機能の整備になりました。
出石藩によって楽市が認められた集落は、広谷町と宵田町の2箇所だけです。出石藩の流通拠点として整備されました。

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