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まちの文化財(162) 村岡藩と山名の殿様

まちの文化財(162) 村岡藩と山名の殿様

山名豊貴が訪れた八幡神社 村岡陣屋があった御殿山
      山名豊貴が訪れた八幡神社                           村岡陣屋のあった御殿山      

 
養父市の北西部にある熊次(くまつぎ)地区は村岡藩の領地でした。
村岡藩は、慶長5(1600)の関ケ原の戦いで山名豊国(とよくに)が徳川家康に味方し、翌年に但馬七味郡(ひつみぐん)6千7百石の領地を与えられて始まりました。領地は現在の香美町村岡区・香美町小代区・養父市熊次地区です。最初は養父郡との郡境に近い村岡区福岡村に陣屋が置かれました。最初は江戸幕府の旗本であり、後に大名となりました。
養父市と村岡藩の関わりを紹介します。慶長11年、村岡藩は領内に26か所の辻堂を整備しました。福定から登る氷ノ山登山道沿いにある地蔵堂は、この時に創建されたといいます。そして寛永9年(1642)、旗本山名家第3代の山名矩豊(のりとよ)は、陣屋を福岡村から黒野村に移転し、その場所を村岡町と名付けました。
明和3年(1766)6月、旗本第7代の山名豊貴(改名 義徳・よしのり)は、江戸から初めて村岡に入りました。9月24日領地巡回の中で別宮の八幡神社に参拝しました。八幡神社が領内に9社ある山名家の崇敬神社の一つだったからです。
そして別宮から外野を通って梨ヶ原に入り、西谷友右衛門宅で昼食。氷ノ山の紅葉を見て「氷の山、風吹く音のきこゆるは、雪降る嵐、今や来るらん」の歌を詠みました。この時代の氷ノ山は、鳥取藩舂米村、村岡藩福定村、出石藩横行村の境界でした。
慶応4年(1868)旗本第11代の山名義済(よしずみ)の時、1万1千石の大名となりました。しかし明治維新によって藩や大名は廃止されました。村岡陣屋の跡地は昭和24年から県立村岡高等学校の敷地として使われた後、現在は御殿山公園となっています。また山名家の墓所もあります。
村岡山名家は応仁の乱で活躍した山名宗全の子孫であり、山名家の棟梁として江戸時代を通して但馬国七味郡を治めました。