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ご存知ですか? 養父市は名医「やぶ医者」の発祥地です

ご存知ですか? 養父市は名医「やぶ医者」の発祥地です

やぶ医者イラスト1 みなさん、『ヘタな医者を現す「薮医者」の語源が、「養父の名医」であるということを知っていますか?
 やぶ医者について新たな発見があり、このたび養父市教育委員会社会教育課が参考文献を基に【名医と呼ばれた養父の「やぶ医者」】と題してまとめましたのでご紹介します。
 
 江戸時代のはじめに活躍した理想的な名医は、但馬国養父という所にひっそりと住み、死にそうな病人を生き返らせるほどの地域医療に取り組んだ人物です。
 人々は尊敬の念をこめて名医である養父に住む医者のことを「やぶ医者」と呼んでいたそうです。
 ぜひご覧ください。


 名医と呼ばれた養父の「やぶ医者」

養父の「やぶ医者」

 風俗文選(江戸時代宝永3年.1706年)

 落語では、人が風邪をひいた時に気楽にみてもらえる医者を薮(やぶ)医者といったようです。
「風がふくと薮が揺れる」ということから「風邪をひくと薮医者にいく」という意味をかけた洒落です。このため、やぶ医者は風邪が流行するとお客さんが増える医者という意味で使われました。落語では、薮の下にあるような医者を土手医者、薮に飛んでくるような医者を雀医者とも呼んでいます。
 いつしか薮医者という言葉が「へたな医者」の代名詞になりました。
 江戸時代に活躍した松尾芭蕉の門人に、 森川許六(もりかわ きょりく)という俳人がいます。この許六が編纂した『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』という書物があります。その中に汶村(ぶんそん)という人が書いた「薮医者の解」(薮医者の解説)という記事があります。
 この書物によると「やぶ医者」とは、本来名医を示す言葉であって、今言われているようなへたな医者のことではない。 いずれの御時にか、ある名医が但馬国の養父(やぶ)という所にひっそりと住んでおり、土地の人に治療を行っていた。死にそうな病人を生き返らせるほどの治療を行うことも少なくなかった。その評判は広く各地に伝わり、多くの医者が養父の名医を見習うようになった。養父の医者と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。
 そして、「養父医者」は名医を示すブランドとなった。しかしこのブランドを悪用する者が現われた。優れた技術がないのに「自分は養父医者である」といって信用をえる者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ「薮医者」となり、「やぶ医者」は「へたな医者」を意味するようになった、というものです。

将軍徳川綱吉に採用された奥医師長島家

 『風俗文選』が書かれた江戸時代、但馬国養父の里に、長島的庵(てきあん)という名医がいました。その父が、第5代将軍徳川綱吉によって将軍家の奥医師に取り立てられた長島瑞得(ずいとく)という旗本です。
 瑞得は、養父市八鹿町九鹿村に生まれました。父の長島徳元(とくげん)は九鹿村の医者でした。徳元は息子の祐伯(ゆうはく)と瑞得の兄弟をつれて江戸に出て、江戸幕府の大老(たいろう)酒井忠清の知遇を得て、大名を診察する医者として活躍しました。祐伯の子孫は、酒井家にゆかりのある横浜市金沢区に住んで泥亀新田を開発しました。また、瑞得の子孫は江戸幕府の旗本となって幕末まで務めました。
 江戸幕府が大名や旗本(はたもと)の事跡をまとめた『寛政重修諸家譜』という書物があります。この中に旗本長島家の初代として「長島瑞得、家督300俵10人扶持」という記録があります。瑞得は江戸幕府の典薬頭(てんやくのかみ)である半井(なからい)家で医学を学び、半井家の推挙で将軍徳川綱吉によって奥医師に採用されました。奥医師は16名で江戸城に詰め、将軍などの医療にあたりました。武士は世襲することが当たり前の時代ですが、優れた技術によって奥医師として新規に召し抱えられました。

養父市に残る旗本長島家の足跡

湯浅家の墓所 長島瑞得には、丈庵と的庵(秀世・道仙)という二人の子どもがいました。兄の丈庵は江戸で旗本の息子として育てられました。弟の的庵は父の出身地である但馬国養父郡の九鹿村で養父母に育てられました。九鹿村の父は湯浅元友という医者で、的庵の親戚です。的庵は成人して医者を継ぎました。
 しかし、的庵38歳の時、兄の丈庵が病弱であったことから、父瑞得によって江戸に呼び戻され武士になりました。元禄13年(1700)、長島的庵54歳の時、将軍徳川綱吉にお目見えし、第2代旗本長島家を相続しました。
 九鹿村の龍蔵寺の墓地には、「毅節(きせつ)先生之墓」「叔慎嬬人(しゅくしんじゅじん)之墓」などと刻んだ7基の墓石があります。そこには「孝子官医的庵長島氏子文建」「宝永二乙酉年建」の文字が刻まれています。これは、「親孝行な息子である官医(江戸幕府の奥医師)長島的庵の子である文が建てました」「宝永2年(1705)に建てました」という意味です。長島文は、第3代旗本となる長島秀明だと考えています。
 毅節先生とは、長島的庵の養父である湯浅元友のことです。医者や儒学者として九鹿村で生活しました。叔慎嬬人は養母になります。当時の長島的庵は湯浅元友の跡を継いで、湯浅的庵という名前で九鹿村の医者となっていました。
 つまり、但馬国養父郡の九鹿村で農民の病気を治していた村の医者が、後に、江戸城に勤務するようになって将軍の主治医になったという物語です。その証拠が、的庵が長年生活した九鹿村で、養父母のために建立した墓石です。

養父市は名医「やぶ医者」の里

 『風俗文選』には、「薮医者」とはもともと「養父の里にいた名医」のことであり、「しばしば死にそうな病人を生き返らせた」と記しています。そして、やぶ医者の語源は、養父の名医のことだと解説しています。
 森川許六は明暦2年(1656)から正徳5年(1715)まで、長島的庵は正保4年(1647)頃から享保8年(1723)まで生存しています。つまり、森川許六と長島的庵は同じ世代を生きた人物です。
 江戸時代の九鹿村に長島徳元や湯浅元友などの医者がいました。長島的庵は湯浅元友の跡を継いで近郷の人々に医術を施し、後には将軍徳川綱吉の主治医になりました。

 九鹿村の高台に龍蔵寺があります。龍蔵寺の裏側にある山の斜面に湯浅元友など湯浅家の墓地があります。九鹿村には「道仙(的庵)さんの屋敷跡」という場所があります。
 龍蔵寺にある湯浅家の墓地を探っていくと、長島的庵・徳川綱吉・松尾芭蕉などにつながる人々が存在し、「やぶ医者」は名医だったという物語があります。将軍徳川綱吉の主治医になった長島的庵は、名医「やぶ医者」と呼ぶに相応しい人物です。
 『風俗文選』に書かれた名医は、但馬国養父という所にひっそりと住み、死にそうな病人を生き返らせるほど地域医療に取り組んだ人物として描かれています。人々は尊敬の念をこめて名医である養父に住む医者のことを「やぶ医者」と呼びました。

養父市八鹿町九鹿の遠景

 松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が編纂した『風俗文選』をみると、昔は名医のことを尊敬して「やぶ医者」と呼んでいました。そして300年以上も昔の養父市では長島的庵という名医が活躍しました。
養父市は名医「やぶ医者」の里です。



『参考文献』
岩波文庫『風俗文選』 伊藤松宇校訂 昭和3年10月15日発行
吉盛智輝『但馬の殿様』神戸新聞総合出版センター 平成22年11月19日 発行
永島加年男『泥亀永島家の歴史』永島加年男遺稿集刊行会(横浜市金沢区洲崎町、龍華寺内)平成27年7月8日発行