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まちの文化財(123) 羽山の里という地名 

まちの文化財(123) 羽山の里という地名 

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      栄町付近の街並み             愛宕山から見た街並み

 
関宮音頭には、「春はうれしや、羽山(はやま)の里に、香るこぶしのループ橋」とい歌詞があります。この羽山とはどの場所なのでしょう。

『関宮町史資料集』では、「日本武尊(やまとたける)が死去し、その霊が白鳥となって、関宮のトリガタワ(関神社がある付近)で羽を休めたことから羽山と呼ぶ」と説明されています。しかしこの説は、江戸時代に古事記の記述になぞらえて作られた地名説話だと考えています。

寛延4年(1751)に編纂された『但馬考』等をみると、八木郷を二つに分け、下八木・中八木・上八木・今滝・三宅・大谷・万久里の7か村を須田庄(すだのしょう)、尾崎・関宮・吉井・中瀬・出合の5か村を羽山庄(はやまのしょう)と呼んでいます。

江戸時代に生野代官所は、羽山庄を行政単位として利用しています。生野代官所の古文書には「羽山庄五ヶ村、須田庄七ヶ村、小佐庄三ヶ村、建屋庄六ヶ村、糸井庄六ヶ村」という記録があります。例えば江戸時代の住所は「但馬国養父郡羽山庄尾崎村」と表現しました。そして下八木村の東側は出石領の朝倉庄であり、出合村の西側は村岡領の熊次庄となりました。

羽山庄吉井村には太田垣猶川(ゆうせん・1747~1819)という有名な学者がいました。心学者である手島堵庵(とあん)の門下生で、但馬地域ではただ一人の教授となり、羽山を号として太田垣羽山(うざん)と名乗りました。そして関宮村に私塾の敬忠舎を開いて門人に教えました。池田草庵よりも少し前に活躍した但馬を代表する教育者です。

太田垣猶川は、羽山の里で学び、門人に教えるという意味で、太田垣羽山と名乗ったと推定しています。
明治13年関宮村に小学校が開らかれました。その時の学校名を羽山小学校と呼びました。また明治19年には、羽山尋常小学校とも呼び、関宮小学校となりました。羽山という地名は、一時期、小学校名ともなっていました。
羽山という言葉は、生野代官所の行政単位を示す地名であり、ふるさとの先人である学者の名前でもあります。そして明治時代の一時期には、小学校の校名にもなりました。

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