CSS3を利用できるブラウザでご利用ください。 Please Use Web Browser support for CSS3. ( >= Firefox3.5 Safari4 Opera10)

薮医者の語源は、養父の名医

薮医者の語源は、養父の名医

 

ヘタな医者を現す「薮医者」の語源が、「養父の名医」であるということを知っていますか。

 
 江戸時代の俳人で松尾芭蕉の門弟である森川許六(もりかわきょりく)という人が編纂した「風俗文選」(ふうぞくもんぜん)という俳文集があり、この中に「薮医者ノ解」と題する一節があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  藪醫者ノ解     汶村

世に藪(やぶ)醫者と號するは。本(もと)名醫の稱にして。今いふ下手(へた)の上にはあらず。いづれの御ン時にか。何がしの良醫。但(たん)州養父(やぶ)といふ所に隱れて。治療をほどこし。死を起(をこ)し生に回(かへ)すものすくなからず。されば其風をしたひ。其業を習ふ輩。津々浦々にはびこり。やぶとだにいへば。病家も信をまし。藥力も飛がごとし。・・・・・・

 ※ 出典:岩波文庫『風俗文選』(伊藤松宇校訂、昭和3年10月15日発行)

 ※ この一節で薮医者に言及したのは許六ではなくその門弟で、許六と同じく近江彦根藩士の「汶村」という人物です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この一節を意訳すると次のようになります。

世の中で「薮医者」という表現は、本来名医を現す言葉であって、今言われている下手な医者のことではない。いつごろの時代であろうか。ある名医が但馬の養父という所にひっそりと隠れるように住んでいて、土地の人に治療を行っていた。死にそうな病人を治すほどの治療を行うことも少なくなかった。その評判は広く各地に伝わり、多くの医者の卵が養父の名医の弟子となった。養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。

 

どうして名医の代名詞としての「養父医者」は、ヘタを意味する「薮医者」となってしまったのでしょうか。

 「養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」と「風俗文選」にもあるように、「養父医者」は名医のブランドでした。しかしこのブランドを悪用する者が現れました。大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったのではないでしょうか。

 「薮医者」の語源については、様々な説がありますが、文献に基づいた「薮医者とは、もともと名医を現す言葉であり、その語源は養父の名医である」というこの説が本当ではないでしょうか。



■風俗文選(ふうぞくもんぜん)

江戸中期の俳文撰集。10巻9冊。5冊本もある。芭蕉の遺志を継ぐ最初の俳文集で、蕉門の許六(きょりく)編。1706年(宝永3)9月に京の井筒屋庄兵衛から《本朝文選》と題して刊行。巻頭に李由序・去来序・支考序・許六序・作者列伝・目録があり、本文の最後に汶村後序、巻末に許六門人孟遠らの跋がある。本文は蕉門俳人28名の作品約120編を、《古文真宝後集》などに倣い、辞・賦・譜・説・解・記・紀行・序・箴・銘・誄・歌・文・伝・碑・弁・表・論・頌・讃賛・書に分類して収める。
 ※ 出典:世界大百科事典第2版

■森川許六(もりかわきょりく)

森川許六(もりかわきょりく、明暦2年8月14日(1656年10月1日)-正徳5年8月26日(1715年9月23日))は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士。

 ※ 出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)

■汶村(ぶんそん)
?-1712 江戸時代前期-中期の俳人。
近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩士。蕉門(しょうもん)の森川許六(きょりく)に俳諧(はいかい)、画をまなぶ。正徳(しょうとく)2年死去。姓は松井(居)。字(あざな)は師薑。別号に九華亭、野蓼斎。

 ※ 出典:デジタル版日本人名大辞典+Plusの解説