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まちの文化財(89) 山陰義塾の石碑

まちの文化財(89) 山陰義塾の石碑

八鹿高校の本館 8902
    県立八鹿高等学校(昭和30年)         山陰義塾の石碑

青谿書院は、全国から武士の子弟が学びにくる有名な私立の学問所でした。全国の藩から派遣された武士の子弟が、青谿書院に勉強にやってきました。池田草庵先生が学問を教えた門人は、673人になります。但馬内の人は265人、但馬外の人は283人です。

明治11年(1878)、草庵先生が亡くなって青谿書院は塾を綴じました。さらに明治維新によって、豊岡藩や出石藩にあった藩校もなくなりました。このため但馬地方では、中等教育や高等教育をうける学校がなくなりました。

そこで草庵先生の門人たちは、私立山陰義塾という学校を作るために活躍しました。朝倉の佐伯理之助、米里の米田喜太夫、八鹿の小島禎助などの人たちです。

そして明治21年1月に、山陰義塾が、屋岡小学校(現在の八鹿小学校)の校舎を借りて開校しました。初代塾長には、建屋出身の北村寛愨(きたむらひろよし)が就任しました。この人も青谿書院の門人でした。 青谿書院で学んだ斎藤哲太郎も教師を務めました。

山陰義塾の入学条件は、小学校4年間を卒業していることです。こでは初等科4年、高等科3年、合計7年間の教育を教えました。現在の中学校から高校の教育内容になります。

分野は英語・数学・科学など12科目で、1週間で35時間を教える本格的な学校でした。しかし残念ながら私立学校であったことから、学費だけでは資金が続かず、明治28年に閉校しました。このため池田草庵の門下生たちは、兵庫県立学校の建設に奔走しました。

そして明治30年には兵庫県立蚕業学校(八鹿高等学校・但馬農業高等学校の前身となる学校)が作られ、教育の伝統は続きました。

この山陰義塾を顕彰する石碑が大正3年に建てられました。文章は学習院大学教授の土屋弘(号は土屋鳳洲)が作りました。この人も草庵先生の門人です。また文字は池田恒(池田粂次郎、池田草庵の継嗣)が書きました。この石碑は八鹿小学校体育館の入口にあって、草庵先生の精神や学校の歴史を伝えています。 

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