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小林礫川さんの襖絵

小林礫川さんの襖絵
 長島家住宅客殿の1階、六畳の座敷に礫川の襖絵があります。資料館となる以前からこの部屋にあったものです。

太公望図襖絵 

 三枚一組の図で、右端から馬1頭と従者2名、中央の一番大きな人物が西周を建国した文王、左端が呂尚という名前の人で太公望です。年老いて貧乏して釣り をしている所を文王に見いだされました。文王の軍師となって西周を建国に導いた功労者です。文王と太公望の出合の場面です。署名は「霊亀曳尾 礫川延安 写」となっています。
太公望図襖絵 太公望図襖絵

山水図襖絵

 四枚一組の図で、右端から左端の方向に山並みが遠ざかっていきます。右端は岩盤に老松が繁り、その向こうには山間の渓谷を滝が流れています。左方向にか けて松並木が見えます。礫川らしい礫川がよく描く典型的な松並木です。署名は「丁酉初秋 延安写」となっています。丁酉は明治30年(1897)で、65 才の時の作品です。 
山水図襖絵

「延安」の落款
「延安」の落款

 小林礫川は、天保4年(1833)6月に江戸の小石川(東京都文京区小石川町)に生まれました。板屋桂舟という人物から土佐派の画法を学び、大和絵を得意としました。本名は小林謹之助、雅号は延安といいます。

 礫川は、文久3年(1862)30歳のときに出石を訪れ、出石藩士多田海庵(弥太郎)に漢学を学びました。海庵は出石藩内の勤皇倒幕派であったため、翌 年、浅間坂で斬殺されました。礫川も慶応3年(1867)に勤皇の志士との交友が原因で捕らえられました。しかし慶応4年に王政復古となり釈放されまし た。

 その後、高柳の大庄屋福田宗右衛門の招請によって高柳村に住み、明治37年(1904)2月、72歳で没するまで高柳村に住みました。地元の青年に勉強 を教え、酒を愛し、そして絵を書くことに没頭しました。小林礫川の書いた絵は、養父市を中心に但馬各地に伝わっており郷土の画家として有名な人です。