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まちの文化財(80) 赤松広秀の供養塔

まちの文化財(80) 赤松広秀の供養塔

赤松広秀の供養塔


お堂に祀られた石碑




豊臣秀吉の時代に竹田城主であった赤松広秀の供養塔が、八鹿町大森にあります。場所は大森公会堂の北側のお堂です。
お堂の中にある自然石に乗林院殿可翁松雲居士之墓のほか、慶長五年十月廿八日、三十三歳逝、前竹田之城主赤松左兵衛広秀の文字が刻まれています。建立は元文4年(1739)です。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時、但馬地方には4人の大名がいました。出石城主小出吉秀・豊岡城主杉原長房・八木城主別所吉治・竹田城主赤松広秀です。但馬の4大名は、豊臣秀頼や石田三成に味方して西軍に属しました。関ヶ原の合戦には参加していませんが、徳川家康に味方して敵対する舞鶴市の田辺城(城主細川藤孝)を攻めて降伏させました。しかし関ヶ原の合戦では西軍が負けます。このため赤松氏は直ちに東軍に味方し、西軍として抵抗を続ける鳥取城(城主宮部長熙)を攻めて降伏させました。しかし徳川家康は赤松氏を許さず、切腹を言い渡しました。
実は、赤松氏の妻は宇喜多秀家の妹でした。宇喜多氏は岡山城主で、豊臣五大老の一人です。関ヶ原では西軍の主力部隊として奮闘し、その後、薩摩に潜伏しました。徳川家康は、赤松氏が宇喜多氏をかくまっていると疑い、鳥取城下の真教寺で切腹させたともいいます。無念の赤松氏は怨霊となって鳥取城下に災害を起こしました。鳥取の人々は赤松大明神として社を作って怒りを鎮めました。
元文三年は大変な飢饉の年でした。しかし八鹿では赤松の殿様が養蚕を奨励していたので飢饉を乗り切れました。このご恩を讃えて供養塔が建立されたといいます。赤松広秀の供養塔は、竹田の法樹寺にもあります。市内にも歴史上の人物の伝説が残っています。
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