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まちの文化財(77) 大谷山崎城

まちの文化財(77) 大谷山崎城

山崎城で発見された古墳の石棺


八木川と山崎城



養父市内には60か所の城郭が存在しています。関宮地域には10城があり、その中で最大規模の山城が大谷山崎城です。大谷集落の対岸の小山にあります。標高230mの尾根の頂上に主郭(江戸時代には本丸と呼ぶ部分)があり、城の規模は東西40m、南北290mになります。城の縄張りは、尾根筋に上から下に連続して小規模な曲輪を32か所作るものです。
天正5年(1577)11月、羽柴秀吉は羽柴秀長らに命じて姫路城から但馬地方に攻め込んできました。これに対抗するために山崎城の防御を強化しました。連続する曲輪を堀切や竪堀で遮断して防衛する戦法になっています。
平成19年度に兵庫県立考古博物館が、山崎城の山裾部を発掘調査しました。すると6か所の平坦地で古墳を発見しました。古墳の石室や石棺は、河原石を利用して造っていました。古墳は5世紀後半に造られたもので、山崎古墳群と命名されました。つまり古墳の平坦地を後の時代に、城の曲輪にも再利用していたことが分かりました。
山城は、敵と戦闘する目的だけではなく、籠城するためにも使います。このため村人の逃げ城にもなります。三宅蛇ヶ尾城、万久里城、葛畑城などは、集落の後ろ側の高い山に城を造っています。ではなぜ山崎城は、大谷集落の後方の山ではなくて前方の山に築かれたのか。これは、現在も山崎城の築城の謎です。
永禄4年(1561)の古文書によって三宅集落に三宅石見守宗善という武将がいることが分かりました。つまり三宅蛇ヶ尾城の城主は三宅一族と推定されています。大谷山崎城の城主は、だれであるのか分かりません。しかし八木城主の重臣であり、三宅石見守のような官職名をもつ人物が城主であったと考えています。