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まちの文化財(74) 池田草庵の立誠舎

まちの文化財(74) 池田草庵の立誠舎

立誠舎の内部


立誠舎外観



立誠舎は但馬地方では最も古い学校建築です。ここで江戸時代に池田草庵が漢学を教えました。立誠舎の保存修理工事が完成しました。建物の本体である屋根・土台・壁を修理して、隣接して事務室を整備しました。屋根の瓦は、大正時代に作られた八鹿焼きの瓦を再利用して保存しました。
当時の姿に蘇った立誠舎は地域の文化を活かした交流と学習の拠点施設となります。平成22年11月28日、八鹿地区自治協議会準備会が立誠舎改修工事竣工報告会を行いました。
立誠舎は、八鹿の町並みがよく見える諏訪町の小高い台地にあります。もともと石門心学を学んだ八鹿の西村潜堂が立誠舎と名づけて、八鹿の若者を集めて講義をしたのが始まりです。西村潜堂は、手島堵庵の高弟である太田垣猶川に石門心学を学び、天保8年に亡くなりました。
天保14年(1843年) 西村潜堂と親交のあった池田草庵が京都一条から八鹿に帰って、立誠舎という名前を受け継いで漢学塾を開きました。31歳のことです。ここに池田草庵の立誠舎が始まります。その後、草庵先生は弘化4年(1847)に生誕地である宿南に青谿書院を建設して移りました。この4年間に62人が立誠舎に入門しました。後に男爵となった北垣国道も立誠舎に入門した一人です。
また西村潜堂の次の当主である第6代西村庄兵衛は生野義挙に参加し、勤王の志士を支援しました。このため立誠舎は、平野国臣や美玉三平等の隠れ家にもなりました。立誠舎は、明治維新にも貢献した遺跡でもあります。
建物は平屋建で、建物の側面に玄関があり、6畳と3畳が各2部屋ある建物です。但馬地方は平入りが一般的ですが、妻入りの民家になっています。この間取りは青谿書院と多くの点が共通しており、青谿書院の原型は立誠舎であることが分かりました。
池田草庵の門下生は、明治時代に山陰義塾や県立蚕業学校(後の県立八鹿高校や県立但馬農業高校)の設立に奔走しました。つまり立誠舎や青谿書院という教育の源泉によって、こうした高等学校が養父市に開かれました。
立誠舎や青谿書院は、大阪にある緒方洪庵の適塾、萩にある吉田松陰の松下村塾にも並ぶ重要な教育文化遺産です。整備された立誠舎は平成の寺子屋として、まちづくりに利用されます。

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