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まちの文化財(73) 大屋ニッケル鉱山

まちの文化財(73) 大屋ニッケル鉱山

昭和17年に完成した大屋鉱山


大屋鉱山跡の現在



養父市には多くの鉱山がありました。日本の90%のスズを採掘した明延鉱山、日本の80%のアンチモンを採掘した中瀬鉱山、マンガンを採掘した山中鉱山、銅を採掘した宮垣鉱山、戦時中に日本の85%のニッケルを産出した大屋鉱山です。高柳の聖長鉱山は現在も滑石を採掘しています。養父市は関西地方を代表する鉱山王国でした。
日本は、昭和12年に日中戦争を開始し、昭和16年12月8日には太平洋戦争に突入しました。このため海外に依存していた金属や鉱石の輸入は完全に途絶え、日本国内で鉱石を採掘する鉱業は重要な日本の産業になりました。
加保にあった大屋鉱山は、日曹鉱業(株)が昭和11年から経営を始めました。戦時体制の中で、昭和17年に日曹大屋鉱業所の大規模な拡張新築工事が完成しました。大屋中学校から旧八鹿高校大屋分校の場所には鉱山事務所や社宅群が建ち並びました。
そして北西部に隣接する尾根筋に選鉱場を建設しました。1日300トンの処理能力があり、昭和18年と19年には精鉱量が約1400トンとなりました。そして全国の85%以上のニッケルを産出しました。
こうした急成長の背景には大きな理由があります。昭和14年に国策として鉱山開発を行う帝国鉱業開発(株)が設立されました。そして国の重要鉱物増産奨励金による受託事業に、大屋鉱山と夏梅鉱山が指定されました。このため両鉱山は、昭和17年7月から帝国鉱業開発(株)の受託経営に移りました。つまり大屋鉱山は日本の国策としてニッケルを増産する重要鉱山になりました。
しかし大屋鉱山はニッケルの含有量が少ないことから、平和時には産業経営が困難であったようです。このため昭和20年8月16日、終戦の翌日という早い時期に閉山が決定しました。養父市は関西地方を代表する鉱山都市という歴史があります。養父市の地下には現在も様々な重要な鉱石が埋蔵されています。

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