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まちの文化財(64) 伝説の琴弾峠

まちの文化財(64) 伝説の琴弾峠

琴弾峠にある袖ヶ池


袖ヶ池の横にある句碑



琴引峠は、平成14年に琴弾トンネルが開通して通ることが少なくなりました。琴引山、琴引坂とも言いました。地図では漢字で琴引峠と表現され、琴弾峠、 琴引峠とも書いています。
琴引峠の宮垣側に袖ケ池があります。長さ12m、幅8mの小さな澄みきった池で、水深は60cmほどです。周囲には桜の木がたくさん植えられており春は綺麗です。この池にお姫様伝説があります。しかし宮垣と八木では内容が少し違います。
宮垣には三方城があります。城主三方正秀の奥方が、三方城の落城後に実家の八木城に帰っていました。ある日、三方城の見える場所で、落城によって亡くなった家臣の冥福を祈って琴を引いていました。しかし在りし日が忍ばれて悲観したお姫様は、池に身を投げてしまいました。池から着物の片袖が見つかったので、袖ケ池と呼ぶようになりました。
八木には八木城があります。羽柴秀吉に攻められた八木城は落城します。城主八木豊信は切腹し、豊信の娘の奈津江姫は八木城を逃れました。しかし琴引峠から振り返ると炎上するお城が見えました。お姫様は力尽きて池に身を投げました。数日後に着物の袖が池にぽっかりと浮いていました。そこで袖ケ池と呼ぶようになりました。
こうした伝説は、集落によって語り継がれ方が変わるものです。八木豊信の娘に奈津江姫が実在するのかどうか、それは不明です。何よりも八木豊信は切腹していません。降参して羽柴秀吉の家臣として鳥取県若桜鬼ヶ城を守備しています。八木城や三方城を見て、地域の人々が思いをはせた昔話が語り継がれて伝説となります。
琴引峠はなぜ琴引峠と呼ぶのでしょうか。伝説ではお姫様が琴を引いたからだと言います。実際には、松風の音が琴の音色に聞こえたからのだろうかと想像しています。袖ケ池は小さな池ですが昔から俳句の名所となっています。
このため袖ケ池には、三つの句碑があります。文化11年(1814)に建てられた喜撰法師の歌碑には「伊津(いつ)の世に、しらへの音の絶(たえ)に公舞、琴弾山の声のき故(こ)えぬ」とあります。別の句碑には「朧夜(おぼろや)や、琴弾坂を夢に越す」、「蝉聞くや、ふもとに遠き袖ケ池」などです。昔から俳句の名所になっています(『大屋町史』史料編)

 

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