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まちの文化財(60) 宮本区に密集する城郭

まちの文化財(60) 宮本区に密集する城郭

旧南谷小学校からみた宮本城砦群


前方は高取城、左上は宮本高城



大屋の御井神社では、毎年1月14日に市指定文化財「まいそう祭り」が行われます。たいまつの中を鬼の面を付けて歩く伝統行事で、但馬地方では珍しい行事です。
この御井神社に近接する尾根に、二つの城郭が造られています。それぞれ高取城、城ヶ越城と呼んでいます。さらにこれらの尾根が交わる標高380mの山頂には宮本高城があります。宮本には三つの城郭が密集して造られました。
この3城は一体的に機能することから、全体を宮本城砦群と呼んでいます。この城砦群は大屋地域で最大の規模で、南北650m、東西400mに広がっています。一つ一つの城郭は簡単な構造ですが、城の範域は極めて広いものです。御井神社の場所も、当時は城郭の一部であったと考えています。
なぜ、宮本に大きな城郭が造られたのでしょうか。なぜか、宮本よりも南側にある須西・和田・明延では城郭が発見されていません。
実は、大屋で合戦が行われた記録があります。文和3年(1354)、播磨守護赤松則祐の軍勢である安積盛兼が、大屋庄に立てこもる武将湯浅次郎左衛門らの城郭を追い落とし、家々を焼き払ったという軍忠状です。大屋庄の場所を示す記録はありませんが、富土野峠を越えて安積盛兼が大屋の南谷に攻め入ってきた。その戦場が宮本集落になったと推定しています。
御井神社は、江戸時代には岩井牛頭天王社(祇園社)と言いました。正応2年(1289)に京都の八坂神社(祇園社)から分霊されたという由緒のある神社です(『大屋町史民俗編』)。つまり御井神社を支える宮座によって結びついた地侍連合が、宮本城砦群を造った。そして播磨と但馬との国境を守る役割も担ったと推定しています。いろいろな所に戦国時代のロマンが残っています。

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