CSS3を利用できるブラウザでご利用ください。 Please Use Web Browser support for CSS3. ( >= Firefox3.5 Safari4 Opera10)

まちの文化財(28) 青谿書院と池田草庵

まちの文化財(28) 青谿書院と池田草庵

青谿書院の玄関


草庵先生講義の部屋



養父市八鹿町に青渓中学校があります。この青渓中学校の青渓という名称は青谿書院に由来しています。青谿書院は弘化4年(1845)池田草庵が35歳の時に宿南に開いた漢学塾です。青山川の渓谷沿いにある書院という意味で、青谿書院と名付けられました。塾舎は茅葺き木造二階建ての建物です。
草庵はここで明治11年、66歳になるまで、673人の生徒に陽明学や朱子学という学問を精神修養を実践して教えました。豊岡藩17名、多度津藩21名を初め、出石藩や平戸藩などの武士の子弟や、但馬の人が多数入門しました。
池田草庵の二つの出来事を紹介しましょう。嘉永4年(1851)、江戸幕府の昌平坂学問所の儒官である佐藤一斎を訪問して数回の講義を受けました。それで草庵は一斎の門人ともいわれます。ここで呉康斎集という書物を書写し、生涯を通じてこの本を研究し実践することになりました。一斎の学問姿勢を物足りないと感じましたが、呉康斎集を知って大きな学問修養の転機になりました。
また嘉永5年、草庵の友人である宇都宮藩郡奉行岡田真吾の推薦で、藩の儒学者への就任依頼がきました。用人の待遇が与えられ、藩主と対面して教え、年収は二百石にもなります。宿南に帰る往復の旅費も保証されました。しかし「名声や金銭があっても学問はできない。清貧に甘んじて生き方を探り、郷里の人材を育てる」という理由で辞退しました。
草庵の門人には、京都府知事を勤めた北垣国道、東京大学総長を務めた浜尾 新(あらた)、文部大臣を務めた久保田 譲がいます。さらに郷里の教育に尽力した和田山・自成軒の安積利一郎、豊岡・宝林義塾の久保田清一、八鹿・山陰義塾の北村寛愨や斉藤信太郎がいます。
日本と但馬の近代教育の推進者を育てた池田草庵の功績は大きなものです。多くの文物が県指定文化財として保存されています。

次のページ 前のページ