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まちの文化財(18) 加保村の藤堂高虎

まちの文化財(18) 加保村の藤堂高虎

加保の一宮神社


藤堂高虎の木柱



大屋のあゆ公園の隣に、高さ4mを超える杉の丸太に「藤堂高虎ゆかりの里、大屋郷・加保村」と書いた記念碑が建っています。
藤堂高虎は、関ヶ原の合戦で徳川家康に味方し、最後には伊勢国の津城主として32万石の大名になりました。藤堂藩が高虎の足跡をまとめた「高山公実録(こうざんこうじつろく)」という書物によると天正8年(1580)高虎は加保村の武士・栃尾加賀守(とちおかがのかみ)[源左右衛門祐善(げんざえもんゆうぜん)]の屋敷に寄宿しました。翌年、小代一揆の平定後3千石を加増されて銃長になったと言います。
この頃、栃尾加賀守の媒酌で香住の中野村住む一色氏の娘と結婚しました。この人が津城主の奥方として慶長20年まで生存した久芳(きゅうほう)夫人です。記録には「(栃尾)加賀守宅にて御婚礼御調、(高虎)西国筋御出陣の中八、加賀守預り居候て、紀州古川(粉河)へ送り申候」と書かれています。高山公実録は、栃尾祐善を但馬における高虎の重要な後見人だと伝えています。
天正13年に高虎は、和歌山県粉河の城主として羽柴秀吉から1万石が与えられます。高山公実録は、栃尾祐善を但馬における高虎の重要な後見人だと伝えています。
大屋公民館大屋町史編集室の桐村明昇さんは「高山公実録は、なぜか加保村とは書かずに養父郡大屋とだけ記録しています。羽柴秀吉が鳥取城攻めの途中で、高虎を訪ねて栃尾加賀守屋敷に立ち寄り、昼弁当をとったとも書いています。高虎が出世する出発点が大屋であると考えて間違いないでしょう」と解説しています。
藤堂高虎は、天正4年に羽柴秀長に3百石で仕官しました。秀長は天正8年に出石城主になり、但馬で10万石を治めました。高虎はその有力武将として大屋付近で3千3百石を知行する領主となり、加保村で結婚したと考えています。

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