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但馬・八木城跡

但馬・八木城跡

城山への登山道

城山への登山道の画像
 八木城跡は、八木川の中流域にあたる養父市八鹿町八木に立地する山城です。そして山城への登山道は3本あります。
 国道9号線から今滝寺への道を100mほど入った所から尾根筋にそって登る下八木ルート、国道9号線にそった柳谷寺の東側の道を登っていく中八木ルートなどです。
 下八木ルートが最も緩やかです。距離は約980mあり、尾根に沿って徒歩で約40分ほど登ると八木城の本丸に到着します。

但馬の城

但馬の城の画像
 室町時代に八木城主であった八木氏は山名四天王と呼ばれた有力国人です。関係した城郭は但馬守護山名氏の此隅山城(このすみやまじょう・豊岡市出石町宮内)を筆頭として、その四天王と呼ばれた武将の城郭です。太田垣氏の竹田城(朝来市和田山町竹田)、田結庄(たいのしょう)氏の鶴城(豊岡市船町)、垣屋(かきや)氏の楽々前城(ささのくまじょう)豊岡市日高町道場)・宵田城(豊岡市日高町宵田)・轟城(豊岡市竹野町轟)、そして八木氏の八木城(養父市八鹿町八木)があります。

八木城の特徴

八木城の特徴1
八木城の特徴2

 八木城は山全体に曲輪(くるわ=城郭を防御するために築いた平坦地)を配置した縄張りをもち、戦国時代八木氏の本城の特徴をよく伝えている大規模な山城です。八木氏は山名氏に属して活躍し、四天王の一人に数えられました。天正5年(1577)に行われた羽柴秀長の第1次但馬攻めで、城主の八木豊信は秀長に降伏しました。そして羽柴秀吉の家来になります。
 天正13年(1585)、新しく別所重棟(べっしょしげむね)が羽柴秀吉から任命されて、養父郡を治める12,000石の大名として八木城に入りました。ここに、豊臣時代の八木藩が成立しました。
 八木城跡は、西から東へ伸びる細い尾根上に築かれた山城で、東西340m、南北260mの大きなものです。標高330mの最も高い位置に本丸を作り、そこから東側に7段の曲輪を作ります。これが登山道に直接とりつく主尾根になります。一方、今滝寺の方向にあたる北側にも6段、さらに琴弾峠をのぞむ南側にも9段の曲輪があります。
 こうした放射状に曲輪が広がる縄張りは、16世紀の戦国期に発達します。山名氏と、その四天王クラスの城など、大規模な城にみられる造り方です。但馬では天正3年ごろから8年にかけて多く竪掘群をめぐらせて城郭を防御する山城が増えますが、八木城には竪掘を造っていません。
 八木氏時代には本丸に石垣はなく、別所氏が八木城の中心部を現在のような石垣に改修しました。このため本丸とその周辺部は、豊臣時代に改修された織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)の特徴を示しています。

八木城の本丸

八木城の本丸の画像 八木城の本丸は長軸47m、短軸23mのいびつな長方形をしています。
 本丸の最も奥まった所に2段の平坦地があり、これが天守台と思われます。本丸の南側には高さ9.3m、長さ40mにわたって高い石垣があり、城下町側だけに石垣を積みます。城郭に防御を目的とした専門の大規模な、石垣を積むことは、天正4年(1576)に織田信長が安土城で最初に始めたものです。この形式が豊臣秀吉にも受け継がれました。
 八木城の本丸の石垣には3つの特徴があります。第1に中央で石垣が「く」の字に折れていること、第2に高石垣にそって幅3.3~3.7m、内側の高さ1.3mの石塁があること、第3に長さ14.9m、幅9.8m、高さ8.3mの櫓台石垣が付属することです。天守台(てんしゅだい)、石塁(せきるい)、櫓台石垣は江戸時代の城郭で普及しますが、その初期の源流になるものが八木城にはあります。
 本丸の石垣から真下の方向に続いている谷が血ノ谷です。そしてその東側にある谷をフルヤケ谷(ふる矢が谷)といっています。八木城の合戦で多くの矢が飛び交い、武将の血が川のように流れたという伝説を伝えています。八木城跡からは、県下で最も高い氷ノ山をはじめ、近くでは琴弾峠、朝倉城が見えます。

矢穴をもつ石垣

矢穴をもつ石垣の画像 石材には石を切り出すときに使った石を割る矢穴が残っています。竹田城と同じ慶長初期に積まれた石垣だと考えられています。こうした石垣は江戸時代の城郭の源流となるものであり、日本城郭史を研究するうえで大変貴重です。
 また本丸の後ろ側は土のままで、石垣は全体の約4分の3の範囲しかありません。こうした方法は織田信長や豊臣秀吉の時代の城郭(一般に織豊系城郭といいます)に多い特徴です。このため天正13年(1585)に豊臣秀吉から新しく八木城主に任命された別所重棟・吉治の親子によって、現在の本丸が石垣づくりに改修整備されたと考えられます。江戸時代にも別所吉治(べっしょよしはる)が城主として在城していれば、石垣で周囲を積み上げた本丸が完成していたと考えられます。

二の丸と三の丸

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 豊臣秀吉の時代の城郭から本丸・天守、二の丸、三の丸という言葉が一般的になります。八木集落では天守という言葉が、本丸を示す言葉として使われています。
 八木城の二の丸は、本丸を囲む曲輪です。敵は本丸の高い石垣を目の前にしながら時計回りに迂回して進むことになります。
 八木城で最も大きな曲輪は長さ66m、最大幅17mあります。先端には「三つ顔さん」というお地蔵さんが祀られています。ここを三の丸と考えています。地元で二の丸・三の丸とは呼んでいませんが、機能面から見るとその役割を持っていたと考えます。

古い八木土城

 八木城から200mほど尾根を奥に登ったところに土城(つちじろ)があります。
 このような高い山の上に城を築くようになるのは南北朝時代(1333~1391)といわれます。第1の特徴は、階段のように細長く連続して曲輪をつくることです。八木土城は細い尾根上に一直線に曲輪が続きますので、南北朝時代に起源をもつ城郭でしょう。標高409mの高所に主郭をおき、全長は370mあります。また主郭は16mX12mの規模で、その縁に低い土塁を作っています。
 5・10・11の曲輪に高さ1.0~1.5mの土塁が作られています。但馬の中世城郭(ちゅうせいじょうかく)では、例を見ない大きなものです。こうした大きな土塁は、最近では織豊期の改修だと考えられています。特に曲輪5の前方部に作られた外枡形虎口(そとますがたこぐち)は、織豊期の改修を特徴づけるものです。
古い八木土城の画像1
古い八木土城の画像2

 八木氏が城主となって完成した戦国時代の城郭は、八木土城と八木城が一連の城郭として機能したものであり、その中心部が土城だといいます。つまり土城の主郭(しゅかく)が、天正5年の八木氏の八木城時代には、2城の両方を押さえた主郭であったと見られます。丹波周山城・若桜鬼ヶ城など、一連の尾根に2城が作られて、それが一体的に使われている山城があります。また曲輪9は長さ42m、幅14mの土城で最も大きな曲輪です。
古い八木土城の画像3