CSS3を利用できるブラウザでご利用ください。 Please Use Web Browser support for CSS3. ( >= Firefox3.5 Safari4 Opera10)

まちの文化財(134) 徳川将軍の奥医師長嶋氏

まちの文化財(134) 徳川将軍の奥医師長嶋氏

長島的庵の文学 画像 

 長島的庵の一族の墓所

 官医長嶋的庵の文学

 長嶋的庵の一族の墓所

江戸幕府が、大名や旗本の系図をまとめた『寛政重修諸家譜』という書物があります。現在では、江戸時代の武家社会を研究するための基本文献となっています。
その中には、江戸幕府の300俵10人扶持の旗本として、仕事の給料200俵を支給された長島的庵(てきあん・秀世)の記録があります。仕事は徳川将軍家の奥医師です。
長嶋的庵は、旗本の奥医師長嶋瑞得の次男として江戸で生まれました。父のふるさとである養父郡九鹿村の湯浅家で養父母に育てられ、九鹿村の村医者となり、湯浅的庵と名乗っていました。しかし貞享元年(1684)の38歳の時、江戸の旗本長嶋家に呼び戻されました。そして元禄13年(1700)54歳で第5代将軍徳川綱吉に拝謁し、父の長嶋瑞得から家督を継ぎました。
長嶋瑞得は九鹿村の出身です。江戸幕府の典薬頭である半井家(なからいけ)に医学を学び、延宝8年(1680)に半井家の推挙で、将軍綱吉によって旗本である奥医師に採用されました。奥医師は16名で、江戸城内で将軍等の医療を担当します。
九鹿村の龍蔵寺にある墓地には、「毅節(きせつ)先生之墓」や「叔慎嬬人(しゅくしんじゅじん)之墓」などと刻んだ7基の墓石があります。そこには「孝子官医(かんい)的庵長嶋氏子文建」「宝永二乙酉年建」の文字が刻まれています。この墓は長嶋的庵を育てた養家である湯浅家の墓所です。
意味は「養父の湯浅毅節先生と養母の叔慎嬬人のお墓を、将軍の奥医師となった長嶋的庵に命じられ、的庵の息子である文(ぶん、秀明)が、宝永2年(1705)に建立した」と解釈しています。
やぶ医者とは、もともと但馬養父にいる名医のことです。松尾芭蕉の門人、森川許六が編纂した『風俗文選』には、「世に薮医者と号するは、もとは名医の称にして、今いう下手の上にあらず。なにがしの良医、但馬国養父というところに隠れて治療をほどこし、死を起こし、生き回(かえ)すものすくなからず」と書いています。
それでは、但馬国養父の里で死者を蘇らせた名医とはだれでしようか。森川許六と長嶋的庵は同時代の人物です。その名医とは、長嶋的庵とその一族であり、その名声が江戸まで届いて将軍家の奥医師に出世したと想像しています。名医やぶ医者のモデルは実在した。九鹿村の医者長嶋的庵の一族だと考えています。

次のページ 前のページ